■胆振線物語
かつて胆振線(いぶりせん)という鉄路が、倶知安と伊達紋別の間を結んでいた。
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この全長83kmの鉄道が完成したのは昭和16年(1941年)10月12日であるが、そこまでには部分部分の開発があり、全線開通までには長い年月がかかった。
今回も、火山マイスターの木原敏秋さんがまとめられた資料を基にしてこの物語を記してみたい。
明治の頃から、日本海側の後志(しりべし)と太平洋側の胆振を縦断する鉄道の要望は高かった。
この鉄道の初めは、大正8年11月15日倶知安~京極間13.4kmに敷設された軽便鉄道であった。北海道の鉄道としては、根室までが大正10年に、稚内までが大正11年に幹線がようやく敷かれたので、大正8年に地方線が出来たというのはかなり早い方であった。
後志の一寒村に過ぎなかった京極(当時は東倶知安村)に鉄路が敷かれた理由は、何といっても脇方鉱山の存在が一番大きかった。倶知安~京極線が開通した年に、三井鉱山(株)は京極~脇方間7.5kmの鉄道敷設工事を始め、完成とともに国有鉄道に寄付する。この京極~脇方間の軽便鉄道は、脇方鉱山から産する良質の鉄鉱石を運搬するのためである。採鉱された鉱石は、貨車にて倶知安、岩見沢、苫小牧、を経て輪西(室蘭)へと運ばれ、鉄鋼の生産に供される。
この鉄道の敷設工事では、寒別~京極間の軽川隧道(411m)や橋梁などで難工事の箇所があった。所謂「監獄部屋」という極めて低賃金で過酷な労働を強いられる作業員がそれに当たったという歴史がある。あまりの過酷な労働に耐え切れずに逃げ出し、近隣の農家にかくまってもらい脱出した例なども多かった。
次に鉄路が延びたのは、京極~喜茂別にかけての区間である。京極線と脇方線の完成を目の当たりに見た喜茂別村民は、村の発展と村民の利便のためには鉄道実現が何よりであることを痛感した。昭和3年11月21日に京極~喜茂別間の胆振鉄道は竣工した。この開発の大きな原動力になった人は、中村与三松であった。彼と村民は協力してこの夢の実現を図った。当時のローカル新聞 後志タイムスには、
「所謂、庶民鉄道と名付くべき程、多数の株主を網羅し、株式総数1万株、株主478人という貴重な鉄道である・・・」とあり、何としても鉄道を敷きたいという喜茂別村民の気持ちが語られている。
一方伊達側の鉄路の開発は、これよりも遅れる。一因には前回のエッセーにも登場した小樽財閥の板谷順助氏の鉄道建設構想に、喜茂別から洞爺湖南岸を経て虻田につなごうというものがあり、なかなか計画が定まらなかった。
伊達紋別~徳舜瞥(のち新大滝)間、35kmの胆振縦貫鉄道が完成したのは昭和15年12月15日であった。更にこの鉄道は、翌昭和16年10月に喜茂別まで延伸開通し、ここに伊達紋別から倶知安までの全線がつながる。
この胆振縦貫鉄道の工事では、特に優園(のち北湯沢)と蟠渓間にあった優園トンネル130mの工事が3年を費やし、請負業者は4回代わる難工事であった。トンネル掘削中に88℃の熱湯が噴出し、作業員はわずか3分で交代せざるを得ない「高熱隧道」工事であった。
また徳舜瞥~喜茂別間の工事では、尾路園(おろえん)隧道というやはり難工事のトンネルがあり、ここでも監獄部屋の作業員が多く命を落としている。鉄道が完成した後、このトンネルでは霊が出るとのことで、保線作業を行うときには必ず2名で仕事をしたと経験談を語っている方がいた。
この全線開通により、脇方、喜茂別、徳舜瞥、優徳、蟠渓、仲洞爺の鉱山からの鉄鉱石は、伊達経由で室蘭に運び出すことが出来るようになり、それまでの倶知安、岩見沢経由の経路より80kmも短縮することが出来、室蘭への移送が画期的に早くなった。
伊達側からの胆振縦貫鉄道の開発に大きく貢献された方は、早瀬吉松翁であった。
早瀬吉松は岐阜県加茂郡東白川村の生まれで、岐阜や名古屋で5年間の木材事業の習得をした後、北海道に渡り白老や伊達にて木材事業を営み、成功した。途中三井物産との提携で、北海道における三井の木材事業を軌道に乗せていった。これらの事業で得た資金を、後年胆振縦貫鉄道の開発に投じた。
翁の喜寿の祝いに刊行された小冊子の一代記を見ると、北海道、とくに胆振の地にお世話になったお礼ともいうべく意味で、沿線住民に役立つ鉄道開発に情熱を傾けられたようだ。伊達日赤病院の建設に際し多額の寄付を寄せられたり、その他にも事業で得た利益を広く社会に還元されている。この一代記にある翁の紋付姿の写真を眺めると、古武士然とした風格が漂っている。
胆振線を語るときに、一番大きな出来事は昭和新山誕生の時のことだろう。
昭和新山は、太平洋戦争中の昭和19年(1944年)から20年にかけて火山活動を活発にして、隆起、噴火を繰り返して人々が住むすぐそばに出来上がった火山である。
昭和新山は胆振線の線路の上で隆起して山を作っていった。このために胆振線の線路は火山活動と戦いながら、場所を移したり、隆起した部分を掘り下げたり、隆起した崖部からの土砂の崩落物を除いたりの連続であった。この間の様子を三松正夫さんが書かれた「昭和新山物語」~火山と私との一生~(誠文堂新光社)から引用させていただくと、
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*(前略)レールはそのままにして土を掘り、モッコではこび、狂いを直すのです。1日30cm近くも掘り下げることがありました。新山は刻々休みなく隆起しているのですから、レールを同じ高さに保っていると、次第にレールが沈んでゆく感じになります。しまいにはレールの両側に沿って4~5mくらいの壁ができ、溝の中を列車が走るようになりました。
晴れた日ばかりではありません。ひとたび豪雨になると、隆起で地盤の不安定な新山から土砂が崩れ落ちてレールを埋め、雨裂溝が進入して道床が崩され、堰止池(えんしち)のそばでは冠水するなど、手のほどこしようもないさんざんのありさまとなりました。そうでなくとも、1kmと離れていない火口では、爆発が続き、そのたびに灰が降り、しきりに起こる地震で思わぬところから石が落ちてくるのです。ほんとうに、いつ何が起こるかわからない危険な作業でした。
ことに第5火口の発生した8月26日以降は、いよいよいけなくなりました。というのは、この火口がフカバ方向にわずか5度傾いていたために、噴石の飛距離がグーンとのび、従来の爆発では風向きにより、また噴火の強弱により、せいぜい火口から300~500mの範囲に降石していたのに、第5火口の爆発では、風のあるなしに関係なく、ちょうど長流川ぞいの鉄道工事現場周辺に決まって落ちるようになったのです。
ドカーンとくれば、生命からがら逃げの一手です。人間は逃げられても、レールは逃げられず、枕木は折れる、レールは傷つく、付属設備は破損、そして隆起は急上昇と被害はつのるばかりです。(後略)*
と昭和新山の生成との戦いの様子がリアルに語られている。
胆振線の上長流(のち上長和)と壮瞥駅の間で火山活動を続けた昭和新山の生成で、大きくは2回、小さくは5回にわたり線路が崩壊し、このための保線と新線建設の作業が火山活動の停止する昭和20年9月まで毎日繰り返された。
この作業には北海道の各駅から1500人の線路工夫が動員され、また壮瞥村からは農家を除き一戸一人の勤労奉仕隊が作られ、線路の修復に当たった。
昭和新山の活動が激しさを増していた頃、この火山活動の場所を避けて久保内から道々関内線を通り稀府に抜ける線路を新たに敷設しようという大迂回路の検討もされたが、工事期間が2年半を要すことがわかり、断念された。最近になり、その一部が有珠山噴火の際の避難道路にしようと作業が進んでいる。
なぜかようにこの線路を死守せねばならなかったか。
この当時戦時中の日本では、既に南方からの鉄鉱石の輸送が断たれ、この胆振線沿線の鉱山が産する一日約1000tの鉄鉱石をぜがひでも室蘭の日本製鉄輪西製鉄所に運び込まなければならなかった。軍需物資である鉄の生産は軍の至上命令であった。
まさに人海戦術で火山活動と戦いながら、毎日列車を通すための線路の保守を行っていたのである。
戦争中という異常な時代における、火山活動という地球の営みに人間が立ち向かっていった一つの歴史である。
なお、昭和新山が第一回目の噴火をしたのは昭和19年6月23日であったが、それから間もない7月1日に、国策により、胆振縦貫鉄道は国鉄に買収され国鉄胆振線となったことを付記する。
図中赤い線で示しているのが元々の胆振線の経路であったが、昭和新山の隆起によって、いまは山腹にあたる場所になった。現在、この山腹にはかつての胆振線の橋脚であったコンクリートの構造物が、鉄道遺構として保存されている。この山の中のコンクリート遺構を見ると、かつてこの地は平坦で、鉄橋の下に壮瞥川が流れていたのが、持ち上げられて山になったのかと思い知らされる。
昭和新山の隆起で、線路はどんどん長流川の方に逃げていった。このまま行くと川まで隆起が進むかと危ぶまれたが、幸いにも昭和20年9月20日に火山の活動が停止して、隆起は止まった。新山の隆起部と長流川対岸の崖との間の最狭部は68mと狭まった。
木原さんは、昭和25年~29年にかけて倶知安で高校生活を過ごされた。壮瞥の実家との行き来に胆振線を利用された。当時この乗車料金は180円ほどで、時間は4時間50分くらいかかった記憶がある。当時の胆振線には客車と貨車がつながれ、途中駅の京極や喜茂別では貨車の入れ替えなどに時間がかかっていた。倶知安を出発して喜茂別辺りまでは旅客も多いが、真中辺りの尾路園と新大滝間では乗客は木原さん一人になることもあったそうだ。
新大滝から伊達に向うとまた乗客が増えてくる。京極、喜茂別、新大滝、久保内では駅弁が売られていた記憶がある。冬の列車には、ダルマストーブが置かれて、石炭、デレッキ、十能などがあったことが思い出される。ストーブではするめ、いも、お餅などが焼かれていた。
伊達で会った方から聞いた胆振線の思い出をいくつか。
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父親が久保内で学校の先生をされていたAさんの話。妹さんが久保内から室蘭の高校に通うことになったが、朝の間に合う旅客列車がなく、早い時間の貨車に乗せてもらって通った。昭和40年代の初めの頃で、おそらくこの頃は貨車を牽引していたのは蒸気機関車であったろう。その後弟さんが室蘭に通う頃には、時間に間に合う旅客列車が運行されていたとのことだった。
伊達で初めて知り合ったSさんは、若い頃、教師として尾路園の奥の愛地という分校に奉職した。子供たちと分校から尾路園駅まで歩き、胆振線に乗り大滝の本校に運動会に出かけたりした。土曜日の授業が終わった午後に胆振線に乗って伊達経由で実家の豊浦に帰った。日曜日の夕方には、また分校に戻る生活だった。尾路園駅と分校の距離があったので、後に50ccのバイクを買ってもらい、分校との間を行き来した思い出がある。
また、この当時Sさんが聞いた話である。喜茂別町には双葉という比較的人口の多い地区があり、当初鉄道は双葉地区を通そうとしたが、双葉地区の人々の反対にあった。蒸気機関車の吐き出す煙が農作物などに悪影響を及ぼすだろう、と嫌われたようだ。その結果、その地区より南側の過疎な御園、尾路園という地域を通すことになったそうだ。
胆振線には、面白い急行が走っていた。「札幌発 札幌行き」という胆振線を通っていく循環急行「いぶり」である。この列車をよく利用されて壮瞥に戻ってきたという方もいらっしゃる。
胆振線は、その後鉱山の廃止、木材資源の枯渇、沿線の人口減、自動車の普及などの影響で昭和61年10月31日に67年にわたる運行の歴史を閉じた。この日ディーゼル機関車に5両の客車で編成された「さよなら列車」には、超満員のお客が乗って倶知安を出発し、伊達紋別へ到着した。鉄道ファンらが列車を取り囲み最後の別れを惜しんだ。
いま伊達のそばの胆振線の跡地が遊歩道・サイクリングロードとして活用されている。伊達温泉のそばを通るこの通り沿いには桜の並木があり、季節になると華やかなピンクの花々が道を彩る。壮瞥方向に歩いていくと、左手に有珠山や昭和新山が眺められる。途中長流川を渡る橋「ちりりん橋」があり、秋にはこの橋の上から川を遡上する鮭の群が見られる。
木原さんの資料の中に、「3K現場」、「6K現場」という表現があるのだが、これはそれぞれ伊達紋別駅から3km、6km地点の長流川の河川敷から砂利を採取した現場を表している。この砂利が胆振縦貫鉄道を作るときの線路の土台を作っていったのだそうだ。「3K現場」は、現在のちりりん橋の辺りだろう。
遊歩道には春から秋に散歩する人、サイクリングをする人も多い。「風のメモリー道」という別名がついている。渡る風にかつての鉄路を思い浮かべてよ、の意味があるのだろうか。
◆絵の説明
・初めの絵 有珠山、昭和新山をバックに走る胆振線SL。想像図。
・2番目の絵 三松正夫さんが描いた昭和新山と胆振線を示す絵。説明のため色を付けた。
・3番目の絵 喜茂別の牧場。後方は尻別岳。
(2014-2-3記)