■中頓別紀行
いささか季節外れになるが、3月に道北の中頓別町を訪れた時の紀行である。
道北の中頓別(なかとんべつ)を訪れた。
今回、ジオパークを目指す中頓別町の方々との研修の目的で、この地を訪れた。洞爺湖有珠山ジオパーク推進協議会の加賀谷さんとわたしの2名で、われわれが今まで取り組んできたジオパークへの取り組みやガイドのあり方などについて経験をお話し、意見交換をしながら研修を行った。
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北海道は広い。
1日目は札幌に前泊。
2日目の朝7:48発の特急「宗谷」で旭川・士別・名寄経由で音威子府(おといねっぷ)へ。ここから迎えに来ていただいた中頓別町の方の車で研修会場の「そうや自然学校」に昼過ぎに到着。午後いっぱいを研修に充てた。
3日目は、午前中に中頓別鍾乳洞へのスノーハイクを皆さんと行い、昼食後町を辞した。
音威子府まで車で送っていただき、以降各駅停車の列車で名寄・旭川へ。その後特急「カムイ」、札幌から特急「北斗」と乗り継いで、伊達には21:00過ぎに到着。
中頓別町は「北緯45度のまち」。宗谷地方の南部に位置し、周囲を山に囲まれた盆地の町である。冬にはマイナス30℃を記録することもあり、また夏には盆地気候のために30℃を超えることもある。昨シーズンにはマイナス31.9℃と、日本で最もしばれた日のシーズン記録を出したこともある。晴れた寒い日にはダイヤモンドダストが見られることもある。人口は現在2000人弱で、ピーク時1950年の7600人の約1/4に減少している。町の主たる産業は酪農である。
盆地の町の真中にピンネシリ岳(敏音知岳)という古い火山があり、見る位置により台形状に見えたり、三角形に見えたり形が変わる。町中を通る国道275号線を走っていると、窓外にこの移り変わる姿を見ることができ、中頓別町のシンボル的な山であると思った。夏には、登山道を歩き約2時間半で山頂に至るが、山頂からは東に浜頓別やオホーツクの海、西側にはサロベツ原野や日本海に浮かぶ利尻山も望むことが出来るとのことだ。
いま町では町おこしの目的でジオパークの取得を検討し始めている。
この町には、最北の鍾乳洞「中頓別鍾乳洞」や北海道中の地質がコンパクトに集まった場所であることなど地質的にも面白いものが集まっている。
明治31年には頓別川上流で砂金が出たとのことで、多くの砂金掘りが入りゴールドラッシュに湧いたこともあったがわずか3年でブームは去っていった。
研修では、わたしから「ガイドについて」ということで、有珠山ロープウエーでわたしが実際に行っているガイドを実演させてもらったりしながら、ガイドの事例を紹介した。
ガイドのスタイルは、人それぞれに様々のものがあると思うが、わたしが目指したいところは、ニセコのガイド矢吹全さんの講演で腑に落ちたことである。その話も今回させていただいた。概要は以下である。
◆ガイドの質の向上と叫ばれるが、ガイド知識などの技術論の前に、“ガイドをする人の
意識の向上”ということがあるのではないか?お客様に、自分が想っているこの地域のよいところを感じ取ってもらえるような伝え方、おもてなしの心、お客様が腑に落ちてくれるような伝え方などが根底にあるべきだ、という考え方を教わった。
“想いとかテーマ”とかを根底に据えたい。
◆伝えるとは、
むずかしいことをやさしく やさしいことをふかく
ふかいことをおもしろく おもしろいことをまじめに
まじめなことをゆかいに ゆかいなことをあくまでゆかいに
(井上ひさし)
難しいことをそのまま伝えたら、理解されない。易しいことだけでは飽きられる。
深いことばかりだと疲れさせ、面白いことばかりだと本質を見誤る。
真面目にばかり伝えたら気持ちや想いは充分に伝わらず。
伝え手の「好き」や「幸せ」―「愉快」、が人に何かを残す。
さてさて、「云うは易く 行なうは難し」のテーマだとは思うが、どれだけ自分の言葉で出来るようになれるか?
研修日の夜には、中頓別町の中心の飲み屋さんで、ジンギスカンをつつきながらの懇親会をもった。一杯入った気軽な中で話が弾んだ。
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翌朝、冬の中頓別鍾乳洞を訪ねるスノーハイクに7人で出かけた。道路脇に車を停めて、スノーシューを着けて歩き始める。初めは目の前に見える小高い丘を目指す。緩やかな丘に登る。そこを通り過ぎると、今度は針葉樹の森が広がり、針葉樹の樹の間の雪道を歩く。樹には雪がまばらについているので、白と緑のコントラストが美しい。そんな森の中を歩くだけでもわくわくして何となくうれしい。しばらく森を歩くと、今度は視界が開けて、起伏の緩やかな丘というか尾根筋を歩くことになる。適度に白樺などの木々があり、視界を邪魔するほどではなく、遠くの山並みが見える。ピンネシリ岳やパンケ山などが白く輝いている。左側には、槍ヶ岳のように鋭い三角形の峰が見える。歩くにつれて少し近づいて来て、また回り込んできているためか全体の山容が変わる。標高はさほどではないが目立つ山なのだ。
まだ無名峰だそうで、みんなで「中頓別の槍ヶ岳だね」と話し合う。
3月初旬のこの時期でも雪がサラッとして軽いのだ。皆さんの話では、新雪が積もった時に、スノーシューを着けても、ももくらいまで沈むことがありラッセルが大変だ。また盆地のためか、風がないときに雪が真直ぐ落ちてしんしんと降るそうだ。
やがて尾根を下った先に鍾乳洞の入口があった。スノーシューを外して、洞窟の中に入る。入口付近には雪が積もり、つららもある。狭い口から中に入ると、天井が高い広間となっている。脇の壁の方には氷のタケノコ、氷筍やつららが滴下する水の作用で出来ている。
1000万年前、中頓別の辺りは海岸であり、その海中に北の海の生物であるフジツボやホタテの貝殻片が厚く堆積していった。やがて長い年月をかけてこの層は石灰岩層となり隆起して地上に出た。そこに二酸化炭素を含む雨水などの作用で、これも長い年月をかけて石灰岩層が侵蝕されて、鍾乳洞などのカルスト地形が作られた。
天井を見ると、小さな穴が無数に空いている。昔洞穴に水流があったころ、複雑な地形で生じた水の渦の力で穿たれた穴だということだ。よく見るとホタテ貝の破片らしきものも観察される。鍾乳洞の奥の方に行くと、はっきりホタテ貝の形をしたものが見られるとのことだが、冬季は洞窟のちょっと先に氷筍が立ちはだかって、奥までは進めない。その通せんぼの氷筍のところで記念撮影をして鍾乳洞を後にした。
再びスノーシューをはいて管理棟の方に向う。少し歩くと見晴しのよい高台の上に出た。目の前は一旦落ちて対岸にはカルスト地形の岩が見える。ここで、
「私たちはいま軍艦岩の上にいるのですよ」と説明された。
「何と軍艦岩の上に!」とびっくり!
事前にいただいた「中頓別のジオパーク構想」の冊子をのぞいていたので、“軍艦岩”という名前は知っていた。カルスト台地の周りが川の流れなどで侵蝕されて、軍艦の形のような巨大な岩壁が残った。春になると軍艦岩につらなる斜面に芝桜が植えられて一面がピンクの原になる。その一番上にドーンとそびえているのがこの巨大な岩なのだ。
何と、その岩の上にいつの間にか立っていたのだ!その意外さが、ある面よかった。何の予備知識もなく、中頓別でも有名な巨大岩の上に導かれて、そのことを知った“びっくり感”がいい。
若い人たち5人は、この岩の上から雪のついた急斜面を尻滑りで下った!途中少し出っ張ったところでは飛んだということだった。「そうや自然学校」の校長先生とわたしは反対側の斜面の道をゆっくり下る。ここも結構な急斜面なのだ。
帰りは、道路のところを歩いて出発地まで一周したことになる。道路の道を往復しただけだと景観が優れずにつまらない。やはり往路の尾根道が変化に富んだ景観を与えてくれて、このスノーシューツアーを楽しくしてくれる。
地元の“鍾乳洞博士”のAさんは、新しい鍾乳洞の発見にも意欲的だ。このカルスト地形の上を歩かれて調査される。カルスト地形のところで、すり鉢状に窪んだ地形をドリーネと呼ぶそうだが、この地形は雨水などが削り取って作られるので、このドリーネの下に鍾乳洞が形成されることがあるそうだ。ドリーネを見つけることは、鍾乳洞を見つける第一歩のようだ。冬の雪がある時期は、このドリーネの窪みが分かり易い。下草の笹が隠れているし、樹木の葉も落ちて見通しがよいからだ。冬の鍾乳洞内は外気より温度が高く、また湿潤であるので、ドリーネの下から湯気が上がることがあるらしい。その白い湯気を手がかりに鍾乳洞を探すこともあるそうだ。冬だからの手法だ。
スノーハイクを終えて町中に戻り、「八番食堂」の名物“馬車追いラーメン”をみんなで食べた。初めて見た者は、びっくりする代物なのだ。
間口40cm、高さ25cmくらいの大きなすり鉢に7人分のラーメンが盛られてくる。おそばは一人二玉なので、14玉が入っている。それをみんなで小どんぶりに取り分けていただく。この巨大ラーメンの姿に先ず度肝を抜かれ、ついで自ずと笑いがこぼれ、みんなで腹いっぱい食べ始めるのだ。店のご主人に聞いてみた。
「おじさん、どうしてこのラーメンを始めるようになったの?」
「飲んだ後に、ラーメン食べたいという人がいるのさ。そうすると俺も、俺もと追加が入ってくることになるのさ。一つづつ作るのも面倒くさいから、大きいのでいっぱい作って、取り分けて食べて、ということになったのさ。その方が量を多く食べる人、少なく食べる人が勝手に調整してくれるのさ」
ということらしい。これを食べ切ると、食べた人たちの名前を紙に書いて1年間、店の壁に貼っといてくれるそうだ。わたしたちも記念に署名してきた。
最後に若いUさんに残ったスープを飲み干してもらう儀式に入った。大きなすり鉢を持ち上げて口に当てて飲む。みんながそのシーンをカメラに収める。
「横を向いて」と注文が入る。
「これ重たいのさ」そうだよね、巨大なすり鉢を持ち上げ続けるのは、重いよね。
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現在北海道のてっぺんの稚内に向う道北の鉄路は、音威子府駅から左回り、日本海側を通って行く宗谷本線一本である。昔は、音威子府駅から右回りで中頓別、浜頓別を経由してオホーツク海側を通り稚内に至る天北線(てんぽくせん:旧国名の天塩国と北見国を結ぶの意)があった。しかし時代とともに乗車客の減少で赤字路線化して、1989年に廃止となった。以後、住民の公共交通の足は、宗谷バスが運行する音威子府—稚内間の路線バスとなっている。大正年間に鉄路はどんどんと北進していった。いまの中頓別町の一番南側の小頓別駅が開業して、その駅前旅館として丹波屋旅館ができた。初めは右側の和風の建物であったが、昭和初期に左側の洋館部分が追加されて、和洋合体型の珍しい旅館となった。
この旅館が繁盛していた大正・昭和の時代には、材木関係の人などが訪れ、にぎわっていたのだろうか。
中頓別町の中央を流れる頓別川を境に、西側になだらかな天塩山地(蝦夷層群)、東側には急峻な北見山地(日高累層群)、中央に浅海堆積物(中頓別層)、火山層など、北海道を構成する地質帯がコンパクトにまとまった地域なのである。
西側の知駒岳周辺では、貫入岩の蛇紋岩が分布し、山地は丸みを帯びている。蛇紋岩地帯の土壌にはニッケルやクロム等の植物の生育を阻害する重金属が多く含まれ、一般の植物は育ちづらい。トリカブトやアカエゾマツやチシマコザクラなど蛇紋岩土壌に特徴的な植物が生育している。
中でもアカエゾマツの純林は、この地の特有の景観を作っている。
ジオパークに登録されたから、いきなり観光客が飛躍的に増えるものでもない。
地理的にもなかなか滞在型の観光客を大量に集めるのは簡単なことではなさそうだ。
ジオパークで目指すところをどんなことにするのか、の作戦は大いにディスカッションする必要があるだろう。
ジオパークの視点に「地質・地形・景観」、「環境教育」、「ジオツーリズム」、「地域経済の発展」、「防災」などがあるかと思うが、活動を通じての「町の活性化に取り組む人材の育成」という視点もあるだろう。
今回、冬の道北の町を訪れ、ここに住む人々と研修を通じて話し合ったり、スノーハイクをいっしょにさせていただき、この土地の風景を実感させていただいた。
わたしたちにとってなかなか得がたい体験をさせていただいたことに感謝いたします。
“北海道は広い”―距離も土地柄(風土)もー
を実感した旅だった。
◆参考資料など
・「中頓別鍾乳洞ジオパーク構想」
・初めの挿絵「冬のピンネシリ岳」 中頓別町史の巻頭の写真から描く
(2014-3-10記)