■秀岳荘
北海道の山用品の老舗である。
40数年前の私たちが学生であった頃にも時々利用させてもらった。
スキーのシール(ナイロン製)、オーバーシューズ、ザックなどを購入した記憶がある。
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われわれが通っていた頃の、秀岳荘はこの挿絵のような、木造の一軒屋であったが、今はりっぱなビルになって、アウトドアー製品全般を扱うお店になっている。
本に載っていた昔の店の白黒写真から絵を起こしてみた。もちろん周りには、他の建物もあるのだが、絵だから省略。何かこうみると、山小屋みたいなお店である。
このお店の品は、とにかく頑丈にできている。学生時代に買ったナイロン製のザックは冬に雪が付きづらいので、スキーツアーなどのときに、よく利用した。背負う部分の一番根元の力のかかる部分は、がっちりした皮がザックの地の部分にしっかり縫製されている。
社会人になってもしばらく愛用していて、結婚してからはスーパーに買い物に行ったときの食料品運びザックとして随分活躍した。
お店のドアにはカウベルが付いていて、開けるとチリリンと鳴った記憶があるが!?
もうかなり昔のことで、間違っているかもしれない。
お店の中は土間で、棚には登山靴が、天井からはザック類が釣り下がっていた。学生なので、何でも買えるわけではなく、時々誰かの買い物に付いて行ったこともあった。
ちょっと高めだが、強度とか品質は良いものを売っているお店という印象がある。当時は、ザックでもテントでも登山靴でもほとんどが秀岳荘オリジナル製品だったのだと思う。
2000年に、卒業30周年の集まりが支笏湖であり来道したおり、かつての北大のそばの秀岳荘のお店に寄った。りっぱなビルになって、登山・スキー用品だけでなく、アウトドアー用品全般を扱うお店になっていた。ザックなどもいろいろなメーカー品を扱い、種類が豊富になっていた。
記念にと思い、日帰り用の秀岳荘オリジナルザックをもとめて、今も使っている。もう一つ欲しかった、ウイスキーケトルももとめて、今も時おり愛用している。これは新潟の燕三条市のメーカー製で「スノーピーク」というブランドだった。
秀岳荘の創業者 金井五郎は、明治42年、新潟県に生まれる。両親と兄と4人で札幌に渡ったのが、大正7年、五郎が9歳の時であった。父は、北大の警備、兄が青果物店を開いて、しばらくは順調に推移したが、五郎も店の手伝いをし始めて間もなく、店が立ち行かなくなり閉店してしまう。その後父や兄が宗教にのめり込むようになり、金井家の収入は五郎の肩にかかるようになった。
16歳の時、郵便局の電報配達の仕事について、この職場で礼儀作法や世間の常識などを学ぶ。また初めて手稲山に登る体験をして、以後山や山スキーの魅力に取り込まれていった。
その後、父の死、ついで兄の死、妻光子との結婚、2回の出征などを体験しながら戦後を迎える。
進駐軍の仕事をしながら、登山用品の販売の内職を始める。それまでの苦しい生活の中でも、友達に用具を借りながら山登りは続けていた彼は、世の中には安くて丈夫な山用品を求める人々が多いだろうと考えていたようだ。
たまたま北大のそばに店があったこともあり、先ず北大の山岳部の門を叩いたのが商売の初めだった。ガリ版刷りのカタログを持って、テントやリュックの注文を聞いたり、テント、リュック、アノラックの修繕、服やズボンのほころび直しなど細やかなサービスもして、学生たちからも喜ばれる。また当時、登山用品は本州の製品に依存していたが、北海道の冬山に合わないことも多かったため、部員たちからの「ここが不便」、「もっとこうした方がよい」というアイデアを入れて、オリジナル商品の開発に励んだ。
当初「金井テント」の名前で店を開けたが、その翌年に、北大山岳部のOBである画家の坂本直行さんの山岳画の個展が札幌で開かれた。直行さんは、農業に従事しながら山登りと画業に励むということで、山仲間に尊敬されている人だった。
この時、五郎は日高山脈を描いた直行さん絵の暖かさに魅かれて、それをもとめた。そんなご縁から、直行さんと知り合い、一緒に山登りに出かけたりする間柄になった。
後日、直行さんに店の名前を変えたいのだが、何かいいアイデアはありませんか、と聞いたとき、
「こんなのはどうでしょう。『秀岳荘』。優秀な山岳用品が揃っているお店。あなたのお店にぴったりですよ。」
と直行さんから云われ、昭和31年に秀岳荘という看板を掲げることになった。
その後、坂本直行も製品の機能性や品質の良さに惚れ込み、多くの山仲間を紹介してくれたり、自らも製品を愛用してくれ、北海道に秀岳荘の名前は知れ渡り、業績は順調に伸びていった。
わたしたちが学生時代だった昭和40年代は、秀岳荘の名前が全道に知れ渡っていたが、まだ大きなビルにはなる前の時代であったわけだ。
丹征昭という人の「北の山旅」という随想の中に、長年使って壊れてしまった小さなザックについての思いを書いた箇所がある。
*たくさん書き込みのある古いボロボロの地図や、もう穿けなくなった山靴と同じく、ザックにも幾多の山の思い出が滲み込んでいて、大掃除のたびに捨てようかと思うが、結局はもとの場所に仕舞うのである。ザックは何かほかのものに作り変えようと思ったが、良い考えも浮かばなかった。だが、ペテガリへ一緒に行ったS君が、山日記を入れる小さな布袋を持っているのを見て、僕もあのザックでその袋を作ろうと思ったのである。特に必要な物ではないが、それで古いザックへの愛着を、無理に断つことは避けられたのである。
そして新しいザックを買った。だが新しい山靴とかザックは、人前ではどうも気恥ずかしい。それに借物のように、しっくりしない気持ちもある。誰でもこのような気持ちはあるらしく、山の道具を売る秀岳荘の主人でさえ「ひとには新しいザックを売るが、私は古ぼけたザックを担ぎたい」と書くほどである。新しいザックを沢で洗いざらしにして、古めかしく見せようとした友人もいる。だが、僕は新しいザックを、新しいまま背負って歩いている。それは新しいザックに、古いザックへの愛情を忘れさせるものを感じたからである。(後略)*
◆参考資料
「ほっかいどう百年物語」第5集 金井五郎の項 STVラジオ編 中西出版
「北の山旅」丹征昭 あうる舎
(2011-4-3記)