■伊達開拓の物語
英雄たちの選択 「もうひとつの明治維新~敗者 伊達家北海道開拓の苦闘」
(NHK BSプレミアムで2015年1月29日放送)という番組から、明治初年に始まった伊達武士団の北海道開拓をたどってみる。
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明治32年雑誌「太陽」は「明治の十二傑」と題して明治という時代を形作るに寄与した偉人12人を選んだ。伊藤博文、福沢諭吉など政治、教育などに名高い人物が選ばれる中、「農業家 伊達邦成」の名がある。
「北海道の開拓に従事した多くの者が志半ばで挫折する中で、伊達邦成の開拓地は小さなアメリカといえるほどの偉業である」と讃えた。
有珠郡の荒野を開拓し一大農業生産地にして、北海道開拓の礎を築いた功績は大であるといわれた。
伊達邦成(だて くにしげ)(1841-1904)が北海道開拓に入った経緯をみてみよう。
幕末に戊辰戦争が起きたとき、邦成は仙台藩亘理伊達家の15代当主であり家臣団1,300人とその家族を抱えていた。仙台藩が盟主であった奥羽越列藩同盟は政府軍に敗れた。政府軍は徳川を倒すべく意気込んでいたが、徳川慶喜は従順の意を示し謹慎していた。江戸は無血開城に至り、政府軍の矛先は東北の反乱軍に過酷に向かうことになった。特に盟主仙台藩は目の敵にされ、新政府の威信を天下に知らしめる対象にさらされた。
伊達邦成は、伊達家の一員として戦乱の収拾に努力したが戦後その領地24000石は召し上げられ、わずか米150俵の処遇に落ちた。これでは家臣一人も養うことはできない。仙台の南の方にあった亘理の領地は、同じく敗戦で石高減少、領地替えになった南部藩のものとなってしまった。
領地、石高を召し上げられてしまった亘理伊達家の武士団は、南部家の農民となってこの地に残るか、ここを出て路頭に迷うかの瀬戸際に立たされる。武士をやめて農民になることも、この先祖伝来の地を離れることも、
「歴代の亘理伊達家当主への君臣の義を失い、先祖に申訳も相立不申」ということになる。
邦成は亘理伊達家に養嗣子として入った人だった。自分の代でこの家をつぶすことはできないという思いは人一倍強いに違いない。
当時の状況を例えるとすると、「家中が無くなるということは、酸素を失うに等しい」ともいわれる。
そんなある日、一策を献ずる者があった。家老の田村顕允(たむら あきまさ)である。
「新政府は必ず北海道開拓に着手します。邦成公自ら家臣を率いて移住し、開拓のさきがけとなれば、朝敵の汚名を受けた仙台藩人の冥加にかなうでしょう」
榎本武揚が五稜郭にこもり箱館戦争が未だ終結しない中、この大きな提案を受けた邦成の心は揺れた。
北海道開拓の道を選んだ場合、
武士の身分を捨てなくてもよい。日常は開墾に従事するが、いざ北辺で事が起きれば武器を持って戦い、武功を立てれば復権の可能性がある。
一方、移住開墾には莫大な費用が掛かるが先の戦いで使い果たしている。また仙台藩は10年前に蝦夷地開拓で白老に300人の家臣が入植したが撤退した苦い経験も持つ。
帰農を選んだ場合、
武士を捨て農民となり故郷に残ることはできるが、南部藩の農民になることは家臣たちの誇りを汚す。また新政府への恨みを持つ者も出るだろう。現にこの時期、明治2年3月、仙台藩では騒動が起き、新政府への不満藩士600人が蜂起して箱館への逃亡を企てた。邦成らは騒ぎを収めるため軍を率いて鎮圧した。
このときの邦成の心中を慮るゲストの意見
【谷村】この時点での邦成らは徹底的な敗者であった。石高はゼロと云っていいほどに下げられ、同志も惨死にあったりしている。ここは不退転の気持ちで移住を考え、生き直すしかないのではないか。心のよりどころは「藩祖 伊達正宗は、知性で農業をした。半農半士としての仙台藩の歴史がある。」ということだ。
【加来】武士を捨て農民になるしかない。
北海道は広く、江戸末期において全道で10万人しかいなかった。京都は平安時代に10万人がいた。どう考えてもやって行けるわけがない。
どれだけ寒い土地か。例えていうなら「北極や南極に行くのに近代装備を持たずに基地を作りに行くようなものだ」
主義主張も大事だが、先ずは命を守ることだ。
【磯田】当時の北海道に行けば、かなりの死人が出るだろうということは予測された。
江戸時代後期、(道外人は)高緯度地域での生活の術を持っていなかった。(特に冬場に野菜がとれず)栄養が偏り、寒波に襲われ、病気で亡くなるリスクは高かっただろう。
【北川】北海道の開拓ということに一筋の道を見出した。総参謀である田村が殿を説得した。身内の中で最も信頼できる者の意見を取り上げないと、殿としての選択肢はかなり狭まる。参謀を重視しなければ組織は持たない。
【三野】亘理の土地は農民たちのもので、家臣1300人が農業をやろうといっても土地はない。従って今までの地で農業をやろうという現実的な提案はされていなかったと思う。
北海道に行く場合、北海道には漁業を中心とした共同体があった。近世後期蝦夷地を描いた紀行などは出回っていたので、まったく未開の地に行くというわけではなかっただろう。
【加来】いやいや松前藩だって、ニシンとコンブと鮭を米の代わりとしていた。お米はとれない土地だった。開拓するということでは、ほとんど成功例はない。当時の農業技術ではこれをくつがえすことはできなかっただろう。しかも財政破たんの状況だ。自分たちの資金をもって開拓するなど困難の極みである。
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「往くも地獄 止まるも地獄」というような境地であったに違いない。
大きな困難を伴う北海道での開拓に思い悩む邦成。彼の不安を打ち消すように、田村はこう進言する。
「我らには1362戸男女7854人の恩顧譜代の家臣がいます」
「この人材こそが資本となるでしょう」
邦成も思う。
「田村の申す通り家臣たちは決死の覚悟でことに当たってくれよう。これが薩摩や加賀にもないわが家臣団の強みかもしれない」
こうして邦成は北海道での開拓を決断し、明治2年(1869)5月に新政府の許可を得るべく請願をする。箱館戦争が新政府の勝利に終わった2か月後、邦成に北海道支配を命じた太政官達が下された。「胆振国有珠郡(現 北海道伊達市)」である。
当時は、有珠山の火山灰に覆われ農業には不向きと考えられていた土地であった。
同じころ明治2年7月に、諸藩や士族に北海道を分割して統治を命じている。例えば、
天塩 水戸藩、稚内 金沢、オホーツク沿岸 和歌山、日高 鹿児島、十勝 静岡、留萌 山口などである。全て自費による開拓である。
邦成は、亘理の大雄時(だいおうじ)に家臣を集めて、移住を宣言する。
「君臣心を合わせ 勤王の実効を奏し 伊達家の汚名を灌(そそが)ん」(邦成公御書)
邦成と家臣たちは先祖伝来の家宝から着物に至るまで全て売り払い、資金を調達する。更に単身ではなく家族を伴って移住することを条件とした。
明治3年(1870)3月、第一回移住団250人が北海道へ出発する。開拓団の歴史を描いた「伊達開拓歴史画」20枚の連作 小野潭(おの ふかし)画があるが、初めの方には、
「現地を調査して、有珠郡に住むアイヌの人々に移住開拓への協力をもとめるもの」
「羽織姿で、刀で木を切る移住者」、「食糧不足から蕗を集める婦人たち」
などの絵がある。
伊達元成さん(伊達市噴火湾文化研究所 学芸員)は、開拓の苦労について次のように語る。
移住は何回に分けて行った。後発隊が農機具を船に乗せて送ったが、船が途中で難破した。農機具等の到着が遅れ、まくべき種がまけずに、その冬は食糧難に陥った。政府に扶助米をお願いして、しのいだ年もあった。困難な状況は他の開拓地でも同様で、開拓をあきらめ故郷へ帰るものが続出した。
そんな中伊達武士団は有珠に踏みとどまり開拓を続けた。
明治4年、移住者は1000人を突破し、開拓は着実に進み成果を上げていった。
そのような頃に水を差すような大きな出来事が起きる。
明治4年7月の廃藩置県の通達で、全国を中央の直轄地にするものである。諸藩の開拓地支配を廃止して、開拓地を返上せよ、とのこととなる。また、士族から平民とする処置も合わさり、武士としての誇りも剥奪された。
邦成は、「圧政も甚だし、人心大いに沮喪し慨嘆に堪へざるなり」と嘆き怒る。
これまで邦成たちが開拓を頑張ることができた背景は、
初めに退路を断って、個人ではなく家族ぐるみの移住を決断していることは大きい。やはり家族があればこその頑張り、女性が家庭を守り、集落を機能させた役割などがあり、艱難辛苦に堪えることができただろう。
移住したときに先住民族のアイヌの人々からノウハウを学び、共同体を作っていこうとした。邦成の日記には、アイヌのリーダーと面会して、いろいろと調整を行い、気を使っていることが伺える。家臣たちに絶対アイヌの人たちとトラブルを起こしてはいけないと訓示している。これはすでにある社会を尊重しながら、新しい共同体を作ろうとした姿勢が感じられる。こういう点も開拓が成功した大きな要因だろう。
ところが廃藩置県の仕打ちは、亘理から有珠郡に移ったときより厳しいものだったろう。有珠郡に移ったのは移封(所領を別の場所に移すこと)とも考えられるが、その土地を取り上げられ、「武士ではない」との処置は、あまりに過酷なものだった。
この後、邦成らは開拓の意欲をどうやって取り戻していったのだろう。
明治4年(1871)8月、黒田清隆は「開拓使10年計画」を打ち出す。10年間で1000万円の開発費を投じて北海道の開拓を大きく進めようとするものであった。このためアメリカに渡り、ホールス・ケプロンやウイリアム・S・クラークなどの技術者、教育者を日本に招くべく積極的に交渉する。
邦成は、このとき北海道を去ろうと思っていたが、開拓使は、これまでの伊達武士団の成果を尊重し、この地に残るように繰り返し説得した。邦成も思い直して、移民取締役として再び家臣たちと歩むことを決断する。
開拓使の協力の基、邦成たちが更に開拓を進めていった背景には、振り返ると大きく3つの戦略があったと思われる。
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・戦略1 新技術を積極的に導入する
開拓使を通じて西洋式農機具を導入して、抜本的な農業改革に挑戦していく。
プラウ(種まきや苗植え付けに備えて最初に土壌を耕起する鉄製農具)を馬で引かせることにより、人力の4倍の効率で畑を耕すことができた。有珠郡の開拓者たちのプラウ保有台数は127台と北海道の中でも群を抜いて多かった。この時北海道の他地域では、石狩で20台、札幌82台、小樽1台、岩内2台、静内32台、浦河1台などであった。
またビート(砂糖大根)の生産をいち早く始めて、国内での砂糖生産の目途をつけた。当時砂糖は輸入に頼っていたが、有珠郡でのビート生産が軌道に乗ったことにより、伊達に日本で初めての官営製糖所が作られ、殖産振興につながった。
・戦略2 力を合わせ新規事業を起こす
明治9年「永年社」という革新的組織を設立した。今でいう組合のような組織で、移住者が全員参加して出資金を出し合い、開拓使からの補助金と合わせて「永年社」の財源とした。この資金で移住者に病気、不幸などがあったときは見舞金を支払い、また新規事業を起こしていく元手とした。例えば、菜種油の生産、大豆・小豆などの商品作物を東京など大都市で販売、硫黄の採取事業などに取り組み、成果を上げていく。
これらは、自給自足の生活から抜け出す力となった。
「永年社」の理念は、
「一人の力は一家の力となり、一家の力は百家の力となる」
・戦略3 開拓精神の伝承
「開拓の精神を次世代に伝えよう」と移住直後に、初等教育を行う有珠郡紋別学校を設立した。ここで移住の歴史を学び、自分たちのルーツを自覚するという教育が行われた。勉強の過程で、もう一度サムライを再生産していくという機能があった。法的な主従関係はなくなっているが、勉強の過程で武士としての心得を学び、団結力、結束力を強めていったと考えられる。
これらの戦略が功を奏し、移住から12年後には移民は3000人を超え、開墾面積は13平方kmと飛躍的に増えた。明治政府はこれを讃えた。
「北海道全道の中でも群を抜く。他の移民の亀鑑(手本)にもなった」
明治18年(1885)亘理伊達家臣団は士族に復籍。
伊達開拓歴史画の最後の1枚では、騎馬武者姿となって開拓20周年を祝うにぎやかな光景が描かれている。
明治25年、邦成は明治天皇から叙勲を受け、明治の難事業を成し遂げた英雄として認められた。
伊達武士団の開拓についてのゲストの意見・感想
【関】もし伊達の開拓がなければ、北海道全体の開拓は遅れただろうし、地域によっては全く違う歴史を歩んだと思う。伊達の武士団の北海道開拓で果たした役割は非常に大きかった。
【加来】「同心協力」心を一つにして協力し合う
「不撓不屈」いかなる困難にもめげずに頑張る
彼らは、これらのことを毎朝確認していた。
大久保利通らが唱えた富国強兵とは違った生き方は、もう一つの明治維新とも云える。
【三野】明治5年までの2年間で63万坪を拓いている。この2年間のことは大きな自負心になったことだろう。北海道で農業をベースにした共同体ができることを証明した。この2年間でベースはできたと考えられる。
「兵農両得」という言葉がある。意識としては武士だが、社会の中で農業を成功させた。明治という新しい社会の中で役割を果たせたか、家を残すことができたかという視点でみれば、北海道で家を生まれ変えさすことができた人々は、勝者というべきだろう。そういう人々によって明治という社会は作られていった。
【谷村】開拓精神の伝承に、価値観を大きく変えた教育があった。「流刑地」との見方を、フロンティアスピリットで開拓した土地だという価値観に変えた。
【北川】3つの戦略は、そのまま現在の地方創生を考えるときに当てはまる。
・新技術の導入 ベンチャーをどんどん取り入れる
・力を合わせ いわゆる6次産業(農業など1次産業だけではなく、加工、販売など2次、3次産業まで行うこと)を目指す
・開拓精神の伝承 理念を統一していろいろな作戦を考える
いま中央集権から地方分権へ、が叫ばれる。彼らの開拓の歴史からは、国依存から自分たちで作って、磨いて、つないで、自ら生きていくという教訓が学び取れる。
【磯田】薩長の武士たちでさえ、明治の世になって役所に席をもらえた人は、1/5にも満たない。農業開拓という場で成功を収めた彼らは、「負けを転じて勝ちにした人々」だろう。それを成したのは教養(知識と道徳が一体化して人間の中に入っている状態)だったと云える。どんなにつらいことも跳ね返す底力は教養に裏付けされている。
◆ゲストの横顔
・磯田道史 歴史学者 静岡文化芸術大学教授 番組の司会・進行役
・谷村志穂 作家 札幌市出身 北海道を舞台にした小説を多数発表
・北川正恭 早稲田大学大学院教授 元三重県知事 独自の地方分権論を主張
・加来耕三 歴史家・作家 日本史を独自の視点から解釈し著作活動
・三野行徳 国文学研究資料館 プロジェクト研究員 亘理伊達家文書を研究
・関秀志 北海道開拓記念館 元学芸部長
・伊達元成 伊達市噴火湾文化研究所 学芸員 伊達邦成の子孫
◆挿絵の説明
初めの絵 見晴らしの丘から見た紋別岳
中の絵 噴火湾文化研究所裏のななかまどの並木
後の絵 伊達市郊外の農家と小川
◆後書き
今年1月にNHK BSプレミアムで放送された、
英雄たちの選択 「もうひとつの明治維新~敗者 伊達家北海道開拓の苦闘」
という番組は、ビデオに撮り何回か視聴してきました。
明治の初年に開拓に入った伊達の武士団の苦闘の物語です。
こちらに住んで、何となく亘理伊達家の武士団がこの地を開拓してきたことは知りましたが、あまり深くは知っていませんでした。
今回この番組を見て、ここに開拓に入った人々が大変な苦労の上にこの地を見事な農業地にして行ったこと、また北海道でも手本になるような開拓地であったことも知りました。
戊辰戦争に敗れた人々が、背水の陣でこの地に渡り、心を合わせて農業をベースとした共同体を築いていったことを知りました。
今回は、このビデオを見ながら、番組での話を書き留めてみました。ほとんど私見は交えず、番組内の話やゲストの意見などを記したものです。
この番組を記憶に留めておきたいという思いからです。
わたしにとっては、この地の歴史を知るうえでとても参考になった番組でした。
また、伊達に住むものとして、過去に大いなる志でこの地を切り拓いた人々がいたことを知ることは、誇りにも思うし、ありがたくも思いました。
伊達邦成という人は、坂本龍馬や西郷隆盛のように全国区に知れ渡った人ではありません。
そういう人をこの番組が取り上げたことも、面白いと思うし、感謝もしたいと思います。
番組の司会進行役の磯田氏が初めに云っていましたが、
「今回は埋もれた英雄発掘という視点で、伊達邦成を取り上げた。日本にはあまり名を知られていないが、大きく世に貢献した人がいる。そういう人に焦点を当ててみたい」
と話していた通りの番組になっていました。
少し想像をたくましくすると、
伊達の開拓でビートの生産が軌道に乗り、日本で初めての砂糖工場 官営紋別製糖所が伊達にできた。そこに開拓使から派遣された三松正夫さん(昭和新山生成の観察記録を残し、後に新山の土地を買い取り保護する)の父上禮太郎氏が会計課長として赴任する。製糖所が軌道に乗った明治21年(1888)に禮太郎氏は家族を東京から呼び寄せて、この年に正夫さんは伊達で生まれる。その後、壮瞥に移られた正夫さんは有珠山と親しくつきあい、明治の噴火を体験して、昭和新山誕生に巡り合う。因果律ではないですが、伊達の開拓と正夫さんの有珠山との付き合いとのつながりを感じてしまいます。
(2015-5-26記)