■象潟・酒田・飛島紀行
象潟からの鳥海山は少し雲があったが、広いすそ野を広げて優美な姿を見せていた。
わたしは象潟は2回目であるが、鳥海山は前回と同じようにゆったりと大きな山容を見せていた。
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この山は有史以来もたびたび噴火を繰り返して、人々から畏れられてきた。朝廷もこの山をなだめるために噴火の度に官位を授けて、ついに江戸時代には正一位まで昇ってしまった。
以前にも述べていることなのだが、鳥海山と象潟の風景にどうしても自然と人事の不可思議を感じてしまう。また改めて書いてしまう。
松尾芭蕉が「奥の細道」で、象潟を訪れて詠んだ句に関わることである。
芭蕉が東北の旅に出たのは、元禄2年(1689年)で、崇拝する西行の500回忌にあたるときだった。門人の曾良を伴い東の松島を見て、最上川沿いに山寺を経て酒田を回り、そして象潟に来た。当時の象潟は海の中に多数の小島が浮かぶ景勝の地で、「東の松島 西の象潟」とその景観の美しさが並び称されるところだった。ここで芭蕉は、
「象潟や 雨に西施が ねぶの花」
と雨にけぶる象潟の風景をいにしえの中国の美女西施(せいし)に例えて詠んだ。
西施は、紀元前5世紀、お隣の中国の春秋時代の絶世の美女である。芭蕉の時代を遡ること2000年以上前の時代の人だが、日本にも昔から長く伝えられてきた伝説の美女だったに違いない。
春秋時代後期は呉・越が覇権を争っている時代であった。越王・勾践(こうせん)は一計を案じて、呉王・夫差(ふさ)に西施を献上した。西施の美貌によって夫差が政を怠り、国力を衰えさせてしまおうという作戦だった。呉王・夫差は西施の美しさのとりこになり、やがて紀元前473年に滅亡した。
鳥海山は紀元前466年に大規模な山体崩壊を起こし、今の象潟の辺りまで岩石や土砂が流れ下った。その結果小山のような流山地形が浅い海中に出来上がった。長い年月をかけて小山には松が生え、美しい景色が出来た。かつて能因法師や西行が愛でたこの景色に会いたくて、芭蕉は象潟まで来た。
不思議なことは、西施が活躍した時代と、鳥海山が崩れて象潟の美しい風景の元が出来た時代が同時代だということだ。しかもそれから約2000年後に象潟を訪れた芭蕉が、その象潟の美しい風景と西施という美女のことを結び付けたことだ。芭蕉の時代だとおそらく鳥海山の山体崩壊が象潟の美しい風景の元であるというようなこと、またその山体崩壊が起きた頃に西施が活躍していたことは分からなかっただろう。偶然にも芭蕉は、自然が作った美しい景観と同時代の美女を句の中で結び合わせた、というところに自然と人事の結びつきの不可思議を感じてしまう。
今回象潟の九十九島の風景や蚶満寺(かんまんじ)などの見どころを、にかほ市観光ガイドの伊藤良明さん、鳥海山・飛島ジオパークのガイドの早川恵さんに案内いただいた。芭蕉が訪れた頃の象潟は、海の中に小島が多数点在する風景だったが、その後の地震による隆起で現在は陸地化されている。かつての浅い海に浮かぶ島を思い浮かべながらこの地を見せていただいた。蚶満寺の開創は853年慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)と云われる。他にも恐山菩提寺、中尊寺、毛越寺、立石寺、瑞巌寺など東北の名だたるお寺300寺以上の創建に関わったといわれる。慈覚大師円仁は優秀なお坊さんで、遣唐使として唐に学び、戻ってからは最澄の跡を継ぎ比叡山延暦寺第3代座主として活躍した。当時の彼の立場だと東北の旅を重ねるような時間はなく、おそらく彼の弟子がその教えを広めるために東北各地を巡ったのだろう。
案内の最後に、“埋もれ木”を見せていただいた。この巨木は、約2500年前の鳥海山の山体崩壊の時に埋まった杉の巨木だった。太くて長いもので、屋外にちょっとした屋根をかけて展示されていた。2500年前の鳥海山の山麓には、このような巨木が生い茂る豊かな森が広がっていたのだろう。ガイドの伊藤さんのお話では、屋外に展示されているので、徐々に風化してきているとのことである。資金のことがあって、このような巨木を屋内で保管するのはたやすいことではないのだが、貴重な資料が朽ちて行ってしまうのは惜しい。秋田空港のロビーにでも展示出来たら、ここを訪れた人が度肝を抜かれ、次に何だろう、どうしてこの埋もれ木はできたのだろう、鳥海山とは、山体崩壊とは、かつての象潟の美しい風景とは、と関心が高まっていくのではないかと思ってしまった。
酒田の町に2泊した。山形県の北部、秋田県にも近いこの町は、江戸時代には北前船が寄港して商業で栄えた町である。日本一のお金持ちだった本間家の屋敷や山居(さんきょ)倉庫にもその当時の繁栄を感じることが出来る。北前船による商業の発達でまちは豊かになり、その繁栄ぶりは「西の堺、東の酒田」といわれた。
庄内平野が広がり昔から稲作が盛んで、江戸時代も米の積出港として栄えた。また最上では紅花の栽培が盛んで、これも酒田港から積み出され、京大阪、江戸に運ばれ、酒田が栄えた重要な産品となった。
町中を最上川が下ってきている。この川は遠く米沢の奥で発して、山形県内だけを流れて日本海にそそぐ。途中急流があり、また船下りを楽しむことができるそうだ。芭蕉もこの川沿いに旅をして、山寺にも寄った。
飛島は酒田から海上39kmの北西沖にある島である。周囲10.2km、標高68mの島で、象潟や酒田の海岸から見ると薄く平たく見える。酒田港から飛島までは定期船が出ていて、1時間15分で結んでいる。
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この日本海に浮かぶ離島はどのようにしてできたのであろうか。いまから1000万年以上の大昔に日本海の海底の火山から吹き出した噴出物が海底に積み重なり、後にそれが盛り上がりながら波や風雨に削られて長い時間をかけてこの島は出来てきた。ジオパークの資料によると、
海の中では海底火山が激しく噴火を繰り返し、火山から噴出した砂や泥が積もり、溶岩が冷えて固まって、たくさんの火山岩や火砕岩が積み重なっていった。その後も大地の活動は続き、およそ300万年前からは、地殻変動によって海底が隆起し、海の中にあった山々が海上に顔を出し始める。飛島もその一つで、海に上に現れた現在の飛島は海底山地の高まりにあたる。こうして陸地となった飛島は大地の隆起と海水による侵食、海面の上昇や下降などによって、階段状の地形(海成段丘)をした現在の地形になった。
江戸時代には、酒田に寄港する北前船の風待ち港となった。風の影響で酒田に入れない船が一旦飛島の港に待機して、酒田への入港を待った。館岩とよばれる流紋岩の大岩が港の周りの壁になってくれて、風を防いでくれる。北前船の船員たちは、しばしの間飛島の宿でくつろいで酒田への入港を待った。酒田の栄を支えた港といえる。
今回わたしたちは、鳥海山・飛島ジオパークのガイド渡部進さんの案内で飛島の中を2時間くらい見て回った。渡部さんからは、飛島に向かう船の中で飛島の成り立ちやそこに棲む動植物の話などをうかがった。
港のそばにある遠賀美(おがみ)神社は海の神様、竜神様を祀る、木が古さびて灰色になったいい色合いの建物である。昔はイカがいっぱいとれて、年貢はイカで納めるほどだった。社殿にはよく見ると、イカと鯉の彫刻があり、「イカ来い!」の語呂合わせだそうだ。飛島の沖にある御積島(おしゃくじま)の洞窟が本殿で、そこには光り輝く龍のうろこのような岩壁があり竜神が祀られている。わたしたちは、ここから出発して、海岸遊歩道を回った。小松浜の砂浜、象の鼻のような岩、ローソク岩、海蝕で穿たれた門のような岩、オーバーハングした岩壁、柱状節理の岩などの荒々しい岩の風景や沖の小島の風景などを見ながら、渡部さんから岩にまつわる話、海岸にある植物、貝・甲殻類の話、また島の伝説や歴史の話など多くをうかがった。この島には縄文人も住んでいたそうだ。古代の人々は、丸木舟で海洋に乗り出し、この離島でも生活してきたのだろうか。海岸から離れ、海成段丘の森に入った。タブノキが広がって空を覆っていた。対馬暖流のおかげで島には暖かい地域の木も繁茂している。クロマツやアカマツの木も多い。森の斜面を登ると少し平坦なところがあり、また斜面を登ると平坦地という地形が3段くらいになっていた。海成段丘を身体で実感した。
飛島は、渡り鳥たちが行き来するときの休憩場所になるとのことだ。日本では珍しい大陸系の鳥なども通過していき、約300種の鳥が観察されているとのこと。ヤツガシラ、オオルリ、キビタキ、ヤマヒバリ、コホオアカ、カラスバト、ハヤブサなども観察される。長旅の疲れをいやす鳥たちのサンクチュアリであり、バードウォッチャーの人びとにとっては、多くの鳥を観察できる格好の場所となっている。5月ごろに有珠山の周りに現れるオオルリやキビタキたちも飛島を経由してきているのだろうか。バードウォッチャーが飛島を訪れると、10日間ぐらい滞在する人もいるそうだ。民宿で朝ご飯を食べると、おにぎりの昼食を作ってもらい、森の中に観察に出かけて、夕方まで10時間くらいを過ごす人もいるとのことだ。
飛島への往復の海上からは、裾野を引く鳥海山の山容が眺められた。
◆参考資料
・鳥海山・飛島ジオパークのパンフレットなどの資料
・象潟・酒田・飛島を訪れたのは、2019年9月6日~8日
(2019-9-18記)