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[2017.10.24]
■下北ジオパークの旅
下北半島は、“まさかり”とか“斧(おの)”の形に例えられる。  
今回、その刃の部分にあたる陸奥湾の北側のところを巡ってきた。  
函館から下北半島の突端の大間、本州最北端の地はまことに近い。函館港からフェリーで出発して、大間港に着くまでの1時間半は、後ろにずうっと函館山が見えている。函館山と大間の距離は、海上30km弱である。下北と北海道の陸地の最短距離は18km。大間の人は函館局のテレビ放送を視聴し、フェリーで函館の病院に行くとも聞く。函館からは日帰りで大間のまぐろまつりにまぐろ丼を食べに行く。  



下北の地域は古来豊かな場所である。  
良質な砂鉄がとれ、そこから作られる鉄はカムチャッカ半島に住む原住民にもめぐっていった。名馬の産地として聞こえ、下北や南部の馬はこぞってもとめられた。蠣崎からは、十五、六世紀の明の青磁や白磁、また染付の破片などが出土し、明や韃靼との海外交易も盛んであったことがうかがえる。北前船の交易でも、木材、銅、昆布などの海産物が送り出されて、京大阪との文化のつながりも持った。  
今回2日間の旅では、下北のことは何でもご存知の濱石基睦(はまいし ともむつ)さんがガイドをしてくださり、またむつ市ジオパーク推進課の安野智哉(やすの ともや)さんもいっしょに付き添ってくださり、いろいろなことを教えてくださった。  
初めに訪ねたのは仏ケ浦の海岸である。  
仏ケ浦は西部海岸の佐井村にある奇岩群が織りなす景勝の地である。1500万年前に噴出した海底火山の灰が押し固められた大地が、雨や波や風で削られてできた自然の造形の地。  
緑色凝灰岩の断崖が、自然の浸食を受け、仏具、仏像に似せた奇岩奇石を形造った。一つ仏、如来首、極楽浜など仏教にちなんだ名で呼ばれている。周辺およそ2kmにわたって白緑色の凝灰岩が織りなすこれらの奇岩類は極楽浄土を思わせるのだろう。  
大正11年、大町桂月がここを訪れて、  
「神のわざ 鬼の手づくり 仏宇陀(ほとけうた)  
人の世ならぬ 処なりけり」  
仏ケ浦は古くは、仏宇陀と書き、恐山と一体をなすものとして、恐山に参拝した人々が、この海岸を巡拝したといわれる。  
わたしたちは、上の駐車場から遊歩道を下って海岸まで下りて、この景色を楽しんだ。少し緑色がかった灰色の岩が林立している。あるところは鋭い三角錐が集まり白いドロミテの峰のように、一つ独立した三角形の仏さんのように、ある岩は、のこぎりの歯のようなギザがつき、ある岩は動物の顔にも見え、高い岩は90mに及ぶ。  
 
大湊は、明治35年、日露戦争前に帝国海軍の大湊水雷団の創設から始まる。当時ロシアの南進の脅威が高まる中、北辺の海の守りをどこに置こうかを検討した。室蘭港の名もあがったが、大洋に面した室蘭は敵からの艦砲射撃を受けやすいことなどで避けられ、陸奥湾の周りを囲む山々に守られた大湊が選ばれた。日露戦争後、大湊要港部に昇格。(要港部とは、佐世保・呉・横須賀などの軍港につぐ海軍の港)現在は海上自衛隊の基地となる。  
 
田名部(たなぶ)(現在 むつ市)は、古来下北の中心地であった。わたしたちはここのホテルに泊り、夕食は近所の“下北物語”というお店に出かけて地元の料理をいただいた。  
南部藩時代に、製鉄所(たたら)が盛んに稼働して、藩財政をうるおした。また、藩の商港としても大いに活躍した。銅を大阪に運ぶだけでなくヒバ、昆布などが若狭などに運ばれた。この田名部に明治になって会津藩がやってきた。  
以下は、司馬遼太郎「街道をゆく 北のまほろば」より引用。  
*下北半島に、数奇なことに、東北南部の雄藩会津藩が(戊辰戦争に敗れた結果)引越してきたのである。会津人たちはこの地を、「斗南(となみ)」という新しい名でよび、以後“斗南藩”と称することになった。命名の主は、会津藩重役広沢安任(ひろさわ やすとう)といわれている。斗南の斗は北斗七星のことである。斗南とは北斗七星の南ということで、名はまことに雄大であった。(中略)  
藩都は田名部におかれた。  
戊辰のころの藩主は松平容保(かたもり)だったが、すでに隠居していたために、新藩主として一歳八ヵ月の容大(かたはる)が田名部の浄土真宗寺院徳玄寺を仮の宿とした。  
会津藩の斗南入りは明治三年(1870)五月で、土地にもとからいた三百戸の人々は、軒ごとに提灯をかかげて祝ってくれたという。  
藩士たちはとりあえず民家に分宿した。が、開墾しようにも農具もなかったという。  
(中略)  
斗南藩のみごとさは、食ってゆけるあてもないこの窮状のなかで、まっさきに田名部の地に藩校を設けたことだった。  
旧会津藩の藩校日新館の蔵書をこの田名部に移し、さらにあらたに購入した洋書を加えて、会津時代と同名の日新館を興したのである。  
おもしろいのは、かつての日新館が藩士だけの教育の場だったのに対し、田名部での日新館は、土地の平民の子弟にひろく開放されたことだった。  
この教育を通じて、この地方に会津の士風がのこされたといわれる。*  
ガイドの濱石さんともお話した。  
「司馬さんは、田名部の人々は、会津からの人々を歓迎したと云ってますね」  
「でも、本音のところは、そんなに豊かでない土地に大量の人々が来たので、歓迎ということではないですね」  
というあたりが本音かもしれない。しかし、このご縁があり、むつ市と会津若松市は現在姉妹都市の関係にある。  
余談になるが、戊辰戦争のわだかまりを解くために、長州の萩市が会津若松市を訪れた。  
「仲直りをしたい」と申し入れた。会津若松市は断ったそうだ。その断りの口上が、  
「斗南の人たちの意向もあることだから」ということだったとのこと。  
また余談であるが、明治の理科教育の大先達で、東京帝大総長などを務めた山川健次郎博士がいる。会津の出身で、はじめ白虎隊に入ったのだが15歳で年が1つ足らずに外された。白虎隊は16,17歳の少年で構成された。山川健次郎も田名部の地で過ごした時期があった。  
 
今回の下北ジオパークの旅では、バスの窓外に林、森をよく見かけた。杉(これは植林もの)、ヒバ、ブナが多かった。中でもヒバ(ヒノキアスナロ)は、青森県の県木でもあり、下北半島と津軽半島に集中して分布している。  
下北のヒバは「南部桧」と呼ばれて、江戸期を通じて盛んに領外に移出された。明暦から寛文末年(1660~1670年頃)までの下北は空前の木材ブームに沸いた。入港船も年100艘をかぞえ、上方や江戸の豪商が独占した請負人が納める運上金は、多い年には6000両にも達し、南部藩のドル箱となった。築城や城下町建設などの木材需要が激増したため、上方商人は下北のヒバ林の商品化を図り、南部藩はこれに保護統制を加えて有力な財源とした。  
後に乱伐によるヒバ山の荒廃が目立ち、南部藩は留め山の制を敷き、伐採禁止区域を設けた。1760年以降、ヒバ山は全て留め山となり完全に藩の管理下に置かれた。  
 
朝、田名部のホテルの7階の窓から見ると、釜臥山(かまふせやま)が近くにあり、その裾野に田名部の町が広がっていることが分かった。朝一番に恐山(おそれざん)を訪ねる。  
恐山を訪れるのは初めてである。行く前のイメージは、テレビなどで垣間見た荒涼とした岩の場所で、イタコ(巫女)が亡くなった人の霊を呼ぶ霊媒を行っている、おどろおどろ世界であった。そんなところではなかった。訪れた日は青空が広がり、夏雲と秋雲がはいたようにある爽やかな気候であったこともあり、恐山の境内は白い岩が多少の起伏の中に散在した明るく感じる場所であった。  
バスの中では、「マリリン・モンローに出てきてもらって、日本語でしゃべってもらおうか」などと不届きなことを云っていたが、この日は朝も早かったためか、まだイタコの方は山門のところには来ていなかった。イタコの方はお寺さんの専属ではなく、場所を借り人々の求めに応じて、口寄せを行うそうだ。  
 
 
寺名は恐山菩提寺で、本坊が曹洞宗円通寺という。開山は伝承によれば、貞観4年(862)、開祖は天台宗を開いた最澄の弟子である慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)であるという。円仁は諸国を旅して下北の地にたどり着いたときに、眼前に広がるまさに霊山と呼ぶべき風景に感じ入り、地蔵菩薩一体を彫り本尊とした。  
恐山への登り道の途中、41丁目あたりに冷水峠がある。うっそうと繁るヒバ林から湧き出る冷水は、昔から恐山参拝者にとって一息つけて、これからお参りするにあたっての清めの水であった。「この水を1杯飲むと10年長生きでき、2杯飲むと20年長生きでき、3杯飲むと死ぬまで生きられる」と云われている。みんな3杯飲んでいました。  
濱石さんがおっしゃっていたが、「下北の人は、死んだら恐山(おやま)に帰る」と思っている。それほど近しい山なのであろう。  
昔の人は、この恐山の風景に何を感じたのだろう。いくつか紹介する。  
江戸期に最初に恐山を紹介した作品に、十返舎一九「金草鞋(かねのわらじ)」がある。  
「満山の光景、奇樹、怪石比類なき霊場なり、頂上に賽の河原、三途川、剣の山、其余百三十六地獄あり」  
ただし、本人は恐山を訪れたことがないので、人づての伝聞だろうか。  
菅江真澄(すがえますみ)は江戸時代後期の紀行家で、蝦夷地(北海道)、南部、津軽、秋田と歩き地誌を編む旅を続けた。生涯の過半を旅に過ごし、「菅江真澄遊覧記」に当時の各地の風景・風俗・文化・歴史を書きとどめて、柳田國男から「民俗学の祖(おや)」と評された。  
佐井村、田名部、大畑なども訪れているが、ここでは冬の恐山を訪れたときのものを紹介する。  
*寛政6年(1794)2月3日(新暦での月日と思われる?)  
外の暗いうちから鈴をふる音、御読経の声が冴えわたるのにまじって、むささびの鳴く声もやかましいが、世間とはちがった静けさである。「早く支度をして」と先にたつ案内が言うので、夜が明けてゆくころ、潟(宇曽利山湖)の岸の林崎のふもとから、雪にすっかりかくれてみえない湖の上を渡ろうと、かんじきをはき、大雪をふみしめて行くと、さらに氷の上をあるいているという気もしない。去年の夏、小舟に棹をさしたり、筏をのり下りしたりしていた、さしわたし一里ばかりの湖上を、野原でも行くように雪をふんで人が行きかいしていた。しかし、危険をおもんばかって、ところどころに行く道を誤らぬ標識として高い枝をさしているのは、もし方向をまちがうと、湯がふつふつと湧きかえる淵があるからである。*  
(出典:「菅江真澄遊覧記」内田武志、宮本常一編訳)  
火山のカルデラの中にあるお寺だそうだ。白っぽい岩が主体の丘を越えていくと、宇曽利山湖(うそりやまこ)という湖の岸辺に着く。白いきらきらした砂浜がある。対岸には、三角形の目立つ山、大尽山(おおつくしやま)がある。洞爺湖の中島にあるおむすび型の西山に似ている。この湖を背景にした穏やかな風景は浄土に例えられている。  
濱石さんと恐山について話したとき、こんなことも話してくれた。  
「田名部から恐山に登っていく10kmくらいの道は、冬の間は雪のため閉ざされます。  
雪が締まってきた3月に、この道をスノーシューで歩いて恐山に行こうと計画したら、40名くらいの人が集まり、雪道を登ったことがありました。」  
お元気である。また冬の雪道、周りには杉やヒバの林がずうっと続く沿道を登り、一旦下ってカルデラの中である恐山に入ったときの開けた白い世界は、どんなにか清浄だっただろう。  
 
尻屋崎は半島の北東端に位置する。津軽海峡と太平洋の両側を見通す場所でもあり、海の航路では重要であり、灯台が立つ。  
風雪に 耐える岬の 寒立馬(かんだちめ)  
と下北カルタに詠まれた寒立馬は、軍馬の名残で通年放し飼いにされている馬で、以前は野放し馬と呼ばれていた。  
昭和45年、尻屋小中学校長の岩佐勉氏が、  
「東雲に 勇みいななく 寒立馬 筑紫ケ原の 嵐ものかは」  
と詠んで以来、寒立馬と呼ぶようになった。  
「寒立ち」とは、カモシカが冬季に山地の高いところで長時間雪中に立ちつくす様を表すマタギ言葉である。冬季寒風吹きすさぶ尻屋崎の雪原に野放馬がじっと立っている様子がカモシカの「寒立ち」に似ているところから、このように歌に詠まれた。  
南部・下北は馬の産地として平安時代までさかのぼることができる。  
以下も、司馬遼太郎「街道をゆく 北のまほろば」より引用。  
*古来、いまの岩手県から青森県下北半島の地は“南部馬”とよばれる名馬の産地で有名だった。  
源頼朝の馬「磨墨(するすみ)」も「池月(いけづき)」(読みは同じで、食月と称する資料もあり)も南部の馬だったという。  
笹澤魯羊氏の「下北半島誌」(名著出版)には、豊臣大名の浅野弾正長吉が八戸根城の南部正栄に出した書状がかかげられている。それによると、浅野長吉が、南部正栄に、下北の田名部(たなぶ)の栗毛二頭を所望し、それを“八戸まで曳かせておいてもらえまいか”という。当時、「田名部」という地名は、名馬の産地としてひびきわたっていた。当時の大名のあいだでは、正宗作の刀剣をもち、田名部の馬に乗ることが、いわば見栄だった。*  
 
下北の旅では、もっともっとたくさんのことを見聞したのだが、全ては書き尽くせない。  
下北に残る多くのアイヌ語地名。「おそれざん」は  
おそらく、アイヌ語の「ウソリ」から来ているの  
ではないか?下北に居たアイヌと北海道のアイヌ  
との関係なども知りたい。  
登山家の田部井淳子さんが2回登ったという、  
急峻で特異な形の縫道石山(ぬいどういしやま)。  
そのそばにある大作山は、もしかして南部の英雄  
相馬大作と何か関係があるのだろうか?  
蠣崎の地から蝦夷地に逃れた人々が、やがて  
松前姓を名乗り松前藩を起こした。  
江戸時代後期に松前藩家老だった蠣崎波響(かきざきはきょう)は、アイヌの酋長たちの絵「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」を描き、全国の大名たちが競ってこの絵を欲しがった。松前藩に“蠣崎”の名は残り、下北と北海道とのつながりを感じる。  
わたしたちの住むそばの噴火湾では、ホタテの養殖が盛んである。豊浦町礼文華(れぶんげ)の海岸は、北海道ホタテ養殖発祥の地として知られるが、その養殖技術は、先輩である陸奥湾の方から教わったと聞く。そんなところにも下北と北海道の関わる歴史がある。  
今回は行けなかったが、まさかりの柄の部分にあたる横浜町は、日本有数の菜の花の作付面積を誇るそうだ。初夏の黄色に埋められた景色にぜひ接してみたいと思う。日本人が郷愁をいだく、  
“おぼろ月夜”の「菜の花畑に入日うすれ 見渡す山の端かすみふかし・・・」  
の景色を見てみたいと思う。  
 
◆参考資料など  
・下北ジオパーク パンフレット  
・第6回 下北検定公式テキスト(“下北かるた”で下北を知る) 下北検定実行委員会編  
 この資料は、下北に関する地質、地勢、植生、天然記念物、産業、文化、伝説、歴史などが絵カルタを使って要領よくまとめられていて、とても参考になった。  
・「街道をゆく 北のまほろば」司馬遼太郎  
・別紙添付 下北半島概略図には国土地理院の地図を使用させていただく  
・挿絵「恐山」は、実際の風景と一部異なり、わたしの心象イメージを合体  
・下北ジオパークの旅は、2017年9月23日~24日  
(2017-9-28記) 
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▼コメント(1)
名前:inaka  2017.10.29 04:14:18
下北の旅 お疲れ様でした わが家の檀家の寺は隣にあり 曹洞宗・円通寺です 恐山も同名に恐れ入りました 向寒の折 元気で活動を・・・感謝 

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プロフィール
mimi_hokkaido
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2007年に横浜から夫婦で移住。趣味は自然観察/山登り、そしてスケッチやエッセーを書く・・・ 
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