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[2016.02.16]
■有珠外輪山の牧場
かつて有珠の外輪山の中には森が広がっていて、銀沼という沼があり、牧草地があり、牛が放牧されていた。  



有珠山は、江戸時代に入った1663年に約7000年の眠りを覚まして噴火をした。以来2000年の噴火まで9回の噴火を繰り返している。1853年に山頂の近くから噴火して、現在の大有珠溶岩ドームが出現した。この年は浦賀にペリーの黒船艦隊が現れ、日本が騒然として幕末の動乱に向かうきっかけとなった年でもある。  
それ以降有珠山は、1910年には北側山麓から噴火して明治新山(四十三山)を作った。1943~1945年の火山活動では東側山麓に昭和新山が生まれ、戦時中の人々の生活に大きな被害を与えた。その次の噴火が1977年の火口原からのものであり、中央部からの噴火は1853年以来のものとなった。  
すなわち有珠山の中央火口原では、約120年以上噴火がなかったので、この場所の植物の再生など自然回復が進んだ。東側の大有珠と西側の小有珠の間の火口原は森が広がり、3つの沼や3か所の湧水地がある自然豊かな場所となった。  
この地に牧場を開設しようと尽力して、牧場が出来た後、この地が穏やかだった約20年間牧場を維持管理した方がいた。  
原兵衛(はら ひょうえ)さん(1899~1994)という。  
昭和32年(1957年)に開設してから、昭和52年(1977年)の噴火で使用できなくなってしまう20年間、毎日のように山の上のこの牧場に通って牛たちの世話をしたり、牧場の維持管理をされた。牛たちは、春から秋の雪のない間、この火口原の牧場に放牧された。昭和34年に草地改良が20町歩施行されて、この年飼育された乳牛は130頭、馬は13頭  
となった。  
有珠の火口原の牧場は外輪山の内側にあり、標高400~500mのところである。原さんは毎日、歩いてあるいはどさんこ(馬)にまたがりこの牧場に通った。たまには、息子兵治さんのオートバイに乗って通ったこともあった。  
原さんの住まいは、若生(わっかおい)の奥の本屋敷という地区で、水場が離れていた。毎日若生の湧水場まで水汲みに行く。大きな水桶を二つ肩掛け棒にさげて、家まで800~1000mの距離を何往復もする。家に着くころには桶の水が歩くときの振動で半ばこぼれて、桶一杯分くらいしか残っていない。食事や生活のための水の確保が一大仕事であった。息子さん兵市さん、兵治さんやその奥様の話では、お風呂の水張りも大変な仕事で、肩までつかる水量を貯めるまでに4,5日かかるということで、たっぷりのお風呂に毎日入れることは夢のようなことだった。  
牛や馬など家畜たちにも充分な水を飲ませてあげたいということは、原さんの夢だった。  
有珠の火口原には、3つの沼と3つの湧水地があり、森が広がり、多少の起伏はあるが広々とした土地が広がっている。  
広い場所、水が豊富、そして牛たちの憩う木陰がある場所として、牧場に適しているという思いは早くから原さんの胸の中にあったに違いない。  
余談である。  
十勝開拓の祖、依田勉三(よだ べんぞう)が書いた「北海紀行」という本がある。北海道開拓の大志をいだいて伊豆の地を明治14年(1881年)に出発して、視察・調査のため函館から海岸線に沿って根室に渡った。  
その8月30日の項に、虻田、有珠の辺りを通った記録が書かれている。  
「(前略)虻田は人家僅かに十余戸、土質は灰色黒墳なり。能く雑草を生ず。水田若干あり。遠見するに茎葉繁茂し蒼々として穂まさに出でんとする有様は蓋し上作なり。草原を行くこと二里にして有珠に至る。平原ありこの地は草短く水なし。然れども無数の牧馬を産す。格好の港湾あり風景殊に美なり。」  
依田勉三の明治初年の記録にも、有珠の辺りは“草短く水なし”と表現されている。“有珠に川なし”とも云われるが、伏流水となって湧水地は各所にあるが大きな川がない。人々が定住して生活のため、家畜を育てるための水を確保することは容易なことではなかったのだろうと想像される。  
この山上の牧場は、正式には「有珠放牧共用林野」と呼ばれ、有珠外輪山内の面積216haを家畜の放牧地とするもので昭和32年に開設された。この管理主体として有珠放牧組合(組合長:原兵衛氏)が同年7月20日に結成された。設立後、放牧施設の造成に着手して、道路の新設、障害物の除去、柵(バラ線)5300mの設営など総事業費約700万円(うち補助や営林署、町費などが半分、残り半分は地元組合員の負担)が投じられた。  
ここに至るまでの原兵衛さんの努力はなみなみならぬものがあった。  
この地は、支笏洞爺国立公園の特別保護区であり、草木一本、石一つ動かせない特別な区域であり、農林省の管轄だけではなく、厚生省、文化庁など多岐にわたる制約の中での放牧林野としての活用は至難であった。原兵衛さんをはじめとする多くの方々が数回にわたって協議、陳情、請願を行い、町はじめ関係機関の協力もあってようやく開設にこぎつけた。原さんたちの熱意が関係機関を動かしたのだろう。  
 
この放牧林野は、いまから思うと一つのユートピア(楽園)だったかもしれない。  
 
 
山上の外輪山内側には、大有珠と小有珠という特徴的な形をした溶岩ドームの山がそびえていて、その間はたくさんの木々が繁茂する森が広がっている。中央の低地には銀沼という静かな沼があり、季節ともなれば水鳥の飛来もあったという。  
以下昭和30年代、40年代にこの地を訪れた方の思い出やわたしの勝手な想像などを述べさせてもらう。  
大きな森が広がっていたということは、5月ごろになるとオオルリやキビタキなどの渡り鳥たちもこの森に来て、美しい鳴き声や姿を現していたかもしれない。太い大きな木や枯れ木もあっただろう。有珠の守り神的なクマゲラやアカゲラなどのきつつきもドラミングの音を森に響かせていたことだろう。牛たちは広々とした草地の原をゆっくりと草をはみながら歩いたことだろう。ところどころにある湧水池でたっぷり水を飲んでいただろう。特に小有珠の裏にあった湧水は年中9℃で冷たくて美味しかったとのことである。牛たちもその水をもとめて、小有珠の中腹を上り下りしていた。  
銀沼には原さん家族が持ち込んだ蓮や睡蓮の花が季節になると美しい花を咲かせた。桟橋ができてボート遊びが出来るようになると、恋人たちがボートを漕ぎ出して愛を語らったことだろう。遠足に来た虻田中学の子供たちが銀沼にフナを放ったのが増えていった。中には赤い色のフナもいたという。学校の遠足や同僚や家族でのハイキングにここを訪れた人は多い。白樺の木が多かったという印象をお持ちの方もいらっしゃる。  
小有珠の下には、有珠善光寺の奥ノ院があった。毎年9月23日から25日にお祭りがあり、白衣のはっぴに袈裟をつけた出で立ちのお年寄りがお参りにくる姿もあった。老若男女いろいろな思いを持ってこの山の上に登ってきた。  
夏から晩夏の頃だろうか、銀沼の上にオニヤンマやギンヤンマがすいすいーと飛び回る風景があった。その美しく大きなトンボを目にしたら、手に入れたいと憧れた子供たちも多かったに違いない。春先には青い小さなカエルが姿からは想像できないほど大きな声でけたたましく騒ぎ鳴いていた。  
思えば、120年余噴火活動がない場所には、木々が生い茂り、沼が出来、色々な動物たちもすみかにしてにぎやかな自然環境が戻っていたのだろう。  
外輪山の内側には自然豊かで平和な風景が展開されていた。これもおとなしい時の火山の姿なのだろう。有珠山にも少し前の時代、そのような楽園があった。  
原兵衛さんは、春から秋の牧場が開設されているときには毎日のように山の上に登られた。毎日有珠山の山ふところに入っていたので、山の一木一草、一石、山の声もよく分かっていられただろう。山の上からの景色を眺めると、落ち着いた気持ちでまた山を下りることができるともおっしゃっていた。  
原さんの牧場設立への努力、その後の牧場管理の活動の功績について、北海道知事は昭和49年に北海道社会貢献賞を贈り讃えた。  
昭和52年(1977年)8月7日午前9:12に有珠山は火口原から噴火した。  
当時54頭の牛が飼育されていたが、生存が確認されたもの47頭、死亡したもの7頭であった。この時の火山活動は1982年3月まで続き、大有珠と小有珠の断層に沿って180m盛り上がって有珠新山の壁ができた。かつての森は破壊され、銀沼の辺りは大きな火口跡になり、あの火口原の牧場の姿は一変してしまった。  
 
◆参考資料や挿絵の説明  
・「有珠放牧共用林野」、原兵衛氏については、火山マイスター木原敏秋氏が調査された資料を参考にさせていただく。  
・初めの挿絵 原兵治氏が1975年頃撮影された火口原の写真から描き起こした  
・2番目の挿絵 1977年噴火前の火口原のイメージ図  
(2016-2-14記) 
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▼コメント(1)
名前:Solus  2016.02.16 17:35:58
私も幼少の頃に、叔父に連れられてハイキングに行った記憶があります。  
幼かったので、沼、牧場、牛たち、そして白樺のイメージが断片的ですが。 

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プロフィール
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2007年に横浜から夫婦で移住。趣味は自然観察/山登り、そしてスケッチやエッセーを書く・・・ 
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・山行 
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・お酒 
・「坂の上の雲」 
洞爺湖有珠火山マイスターに認定されました。 
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