■即身仏 4 仏海上人
このコラムをずっと見てくれている方は解ると思うけど、即身仏さんのコラムは、どういう訳か、たくさんの方が読んでくれているようで…。今回はいつか必ず書き込もう!と思っていた新潟県村上市観音寺に奉られている”仏海上人”の事を紹介しようと思う。仏海上人が入定されたのは明治36年(1903年)の事で、現在日本に現存している即身仏さまの中で、一番新しいというか、現代に近い時代に即身仏となられた方なんで、鮮明な写真も観音寺には残っている…。今でも優しさがにじみ出ているように私には感じてならない…。
この仏海上人、文政11年(1828年)に新潟県村上市安良町に近藤家の長男として出生している。18歳の時、湯殿山の注連寺に入門し、仏海という海号をもらい15年間、湯殿山の仙人沢という修行場で荒行を重ね、類稀なる霊力を得たという…。仏海さんを語る時、欠かせないのが膨大な荒行と寄付なんだけど、ある意味、元々はなっから即身仏になるのが目標だったフシが強く、丸っきり欲というものが、感じられない…。とにかく仙人沢での修行は過酷そのもので、燃え盛る一束の線香を手に真冬の川に飛び込み真言を唱えたりの荒行が主で、失神して川下に流され、危うく水死しかけた事も度々だったし、また、仏海上人の左手は石ころのように固まっていた!と言われているが、それは、左手の掌に油を注ぎ、それに灯芯を入れて、火を点じて修行をしたためと言われている…。更にある時は伊豆天城山中で難行をし、酒田市の海向寺でも3年ほど修行をして、35歳の時から即身仏になるための五穀断ち十穀断ちの木食行をはじめ、明治36年に遷化するまで、実に41年もの人生を荒行と貧民救済に当てたお上人さまなのね…。
その状態までして得た霊力は類稀だったのは疑いの余地はないが、明治36年までご存命だったから残された逸話も多いし、今でも仏海さんに逢った事がある方も多いから、たくさんの貴重な話と美談を私も聞く事が出来た。晩年は即身仏になって人の苦しみを救う事だけが生きがいだったので、漆を飲んで自分で作った入定塚に何度も入って生きながら入定したいと何度も言っていたが、明治に入って墳墓発掘禁止の法律が出来たため、入定自体が自殺とみなされ、何度も警察からお呼び出しもくらったようなのさ…。仏海さんはとにかく村上の町では人気が高く、特に子供たちから絶大の人気があったようで、袈裟の袂にはいつも飴玉なんかを忍ばせて子供を見ると与えたような人だったから、寺にはいつも子供たちで溢れていたんだと…。その時仏海さんが何か飲むんですわ…そうすると子供は「仏海さん何飲んでる?」って聞きますよね?すると仏海さんは「これは漆だよ」って正直に言うもんだから、子供は家に帰って親に言うんですよ「仏海さんまた漆飲んでた」って…その噂が警察の耳にも入るから「また漆飲んどるのか!」と散々止められても、仏海さんは漆を飲むのを止めなかったようなのね…。死後、仏海さんは即身仏を志していたのだからと、大勢の信者に見守られながら自ら作った塚に納められたという…。3年経ったら掘り返してくれと常々言っていた仏海さんだが、法律上の問題で、昭和36年になってやっと調査が入り、現在観音寺の立派な厨子に安置されている…。
私が始めて村上に行った頃は、まだご健在な仏海上人信者やお世話になったという方も多く貴重な素晴らしい話をたくさんしてくれた…。とにかく逸話が多く残っている方で、即身仏になるのが生きている目標だったから、仏海さん丸っきり欲がない!金が集まると寄付と貧民救済にあて、徒弟教育に力を尽くし80余名の弟子を持った。逸話をいくらか紹介すると、とにかく類稀なる霊力だから占いや祈祷の客が絶えなかった…。その当時、仏海さんの横には大きな鉄の屑入れがあったらしいんだけど、いただいたお布施を見もせず、その鉄の屑入れにポンポン入れちゃう人だったんだって…ある日、観音寺にドロボウが入った…。でもドロボウもさすがにお寺の金を根こそぎは…って躊躇してたら、何を思ったのか仏海さん「あんた!それじゃ足りないだろう~もっと持って行きなさい」ってドロボウにくれてやったり、除夜の鐘が鳴る大晦日になると信者を集め例の鉄の屑入れをひっくり返し、「これで、正月にお餅の買えない家にお年玉を!」って村上の町の家計の苦しい家にねずみ小僧のように金銭を突っ込んだりもした…。自分の還暦のお祝いの時など、信者さんたちから、現在の金額なら300万、米俵15俵の贈り物があったそうなのだが、「このような私のためにたくさんたくさんありがとうございます…」って口の渇かないうちに次の日には現在なら1000万近くの金銭とその15俵の米俵を新潟県庁にソックリ寄付してしまったそうです。「これで恵まれない人たちを救って下さい…」ってね…。実は仏海さん新潟県庁から”7回”も表彰されている方なんですよ…。

あるおばぁさんが、話してくれた話では、まだ自分が子供の時、よく母親について来て仏海さんの所に来ていたそうです。ただ、母親からは仏海さんは木食をしているためか、「あんた!仏海さんの顔を見ると目がつぶれるから決して見てはいけない!」とお灸を据えられていたそうなんです…。でもね、そう言われたら益々見たくなりますわな…。チラチラ見ちゃうんですって、そうするといつも仏海さんは気だるそうに、肘掛にもたれながら、優しい笑みで、「お嬢!よう来たな!」と言って掌にたくさんの菓子を乗せてくれたそうです。そしてその方の手を返し、手の甲をたくさんさすりながら、「お嬢!大きくなったら正しい人になり!正しい人になりぃよ…」って、さすってくれたそうです。その温もりが今でも忘れられない…って…。
私はその話聞いた時、涙が止まらなくなって嗚咽まで出ちゃいましたわ…。「正しい人?正しい生き方?」っていうのが、とっさに”これが正しい生き方!”って出て来なく、まして自分が本当に”正しい生き方”をしている自信もなく…。”正しい生き方”ってどんな生き方なんでしょう?って見た事もなく…。皆さん!正しい生き方って本当に知ってますか?
仏海さんが亡くなった時、上人さまの亡骸を湯かんした水を皆で”もったいない”と言って飲んだそうです…。仏海上人は生き仏だったんでしょうね…。
長い文章に付き合ってくれた方、本当にありがとうございました。また、機会を見つけて他のお上人さまの事も紹介したいと思います。観音寺の堀住職!元気だろうか?何かこのコラム書いていて、住職と仏海上人に久しぶりに、とっても逢いたくなってきました…。