作家の司馬遼太郎氏は戦争中には従軍して終戦の直後に23歳になった。氏の青春は日本が戦争にのめりこんでいった時代であった。氏は終戦のときにこう思った。
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日本がひっくり返った。昭和前期日本という、日本史の中で異形(いぎょう)の国家がほろんだのである。実にばかな人々が日本を運営してきた。
(日本人は、昔からこんなぐあいだったのか)
と、おもわざるをえなかった。むかしはちがったのではないか。・・・・
昭和初年ごろから、同二十年まで、日本は特異な人たちによって牛耳られていた。軍部が明治憲法の三権分立の建てかたを、“高度国防国家”という新理念のもとで麻痺させ、統帥権(とうすいけん:軍隊指揮についての根本的な権)を無限大解釈し、国家をその支配下に置くことによって、一種の国家社会主義形態に仕立て変えてしまったのである。こんな異形の国家はむろん日本的ではない。げんに日本史のどの時代にもない。
氏の書くことへの思いは、この日のこの感じ方が根っこにあるようだ。後年の氏の代表作の一つである「坂の上の雲」では、明治という時代の日本人がどのようなことを考え、実践していったかが克明に描かれ、明治日本の叙事詩といわれる。「昭和に入る前の時代の日本とは、日本人とは」を描くことによって、異形の時代の日本をあぶり出しているともいえる。「こんなはずじゃない」という日本と日本人へのいとおしみの気持ちがあるように思う。
終戦占領下の中、日本は復興に向かっていく。日本が再び独立国として世界に加わるのは、1951年のサンフランシスコ講和条約を経てからである。
先日読んだ本に、サンフランシスコ講和会議でセイロン代表の方が行った演説は印象に残るものだったので、ここに紹介させていただく。
*1951年9月6日、第二次世界大戦の戦後処理が話し合われたサンフランシスコ対日講和会議での出来事であった。
分割統治など、日本に対して厳しい制裁を科そうと集まった人々を前に、セイロン(現スリランカ)代表のジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ蔵相(1906~1996。後に大統領)が演壇に立った時、意外のことに彼は、ダンマパダ(法句経)の詩を引用して、日本に自由を与え、賠償放棄することを宣言した。
我々の日本との永年に亘るかかわり合いの故であり、またアジア諸国民が日本に対して持っていた高い尊敬の故であり、日本がアジア諸国民の中でただ一人強く自由であった時、我々は日本を保護者としてまた友人として仰いでいた時に、日本に対して抱いていた高い尊敬のためでもあります。
空襲による損害、大軍の駐屯による損害、ゴムの枯渇的樹液採取によって生じた損害は、(日本に対し)損害賠償を要求する資格を我国に与えるものであります。しかし我国はそうしようとは思いません。何故なら我々は大師(釈尊)のこの言葉を信じているからです。
すなわち、
「実にこの世においては、怨(うら)みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である」
このジャヤワルダナ代表の言葉は人々の胸を打ち、我が国に対して厳しい措置を科すつもりであった各国代表の心を動かした。ひいてはそのことが戦後日本の早期の立ち直りを可能にし、我が国の国際舞台への復帰を促すことになったのだった。*
もし、日本の分割統治の話が決まり、ソ連が北海道を統治するような事態になっていたら、戦後の驚異的な日本の復興などなかっただろう。サンフランシスコ講和条約後、日本を引っ張った吉田茂、池田勇人ラインが経済優先、軍備最小の路線をとった結果、日本は短期間で世界が驚くほどの経済大国に躍進した。(が、その後停滞して現在に至っているが。)
ジャヤワルダナ氏は大統領時代にも度々日本を訪問して両国の友好を図った。大統領を退いた後でも、昭和天皇の大喪の礼に参加され、日本との交流を深めてくれた。1996年に氏は死を迎えたときに、自分の眼の片方はスリランカの人に、もう片方の眼は日本人に贈るように遺言した。実際に片方の眼の角膜が日本にもたらされ、関東地方(または長野県という説もあり)に住む女性に移植されて、彼女の眼は光を取り戻した。
ジャヤワルダナ氏は一貫してダンマパダの精神を実践していった人だった。
◆参考資料
・「街道をゆく」36 本所深川散歩・神田界隈 「反町さん」の項
・岩波ジュニア新書「知の古典は誘惑する」 「真理の言葉(ダンマパダ)」
・挿絵 「安野光雅画集」奈良坂から大仏殿 を模写
(2020-7-27記)