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[2020.01.10]
■オヤジとおふくろ
(2015年1月13日) 
 
月刊「文芸春秋」の後ろの方に「オヤジ」、「おふくろ」というエッセイのページがある。 
 
どちらもある程度の有名人が自分のオヤジやおふくろに付いて、思い出を書いているページであり、私はここを読むのを楽しみにしている。 
 
文芸春秋 「オヤジ」と「おふくろ」 


時々、もの凄くユニークであったり、ハチャメチャなオヤジやおふくろが登場する。その子供がユニークかというと、必ずしもそうではない。 
 
では私のオヤジとおふくろはどうだったのか?  
私がボケる前に記録しておこうと考えた。 
 
ここから下の写真は「深川江戸資料館」で撮影したものです。 
 
 
オヤジの正確な生年月日は忘れたが、明治の終りか、大正の初めに近かったと思う。八王子の豊かな織物工場の家の五男に生れた。兄弟・姉妹は12人である。 
 
20歳の時に、何を思ったのか1人でブラジルに渡った。 
それも親からもらったかなりの大金を持って・・・・。 
 
 
 
ブラジルでは商売をやって、一時は大成功したようだ。 
しかし、有頂天になって博打に嵌り全てを失った。 
そしてホームレスとなり、野宿生活もしたらしい。 
 
これだけで、かなりハチャメチャなオヤジだ。 
 
 
 
その後、オヤジの父が危篤となり、母がみんなに隠れて帰国の船賃を出してくれたが、それも博打ですってしまった。 
 
最後は乾汽船の横浜港着払いで日本へ帰って来た。 
その後、父の知り合いの機械メーカーに潜り込み、サラリーマンをした。 
 
 
 
そして少しずつお金を溜めて、小金井に自分の工場を持った。 
この辺から私の記憶にもあるのだが、オヤジは自分の会社があるのに、朝になると勤めに出る。 
 
すると入れ替わりに社員が出社して働き出す。 
社員が帰るとオヤジが会社から戻り、仕事を続けるという妙な会社だった。 
 
 
 
その後、徐々に仕事が増えて金属家具の下請けメーカーとなり、その仕事に必要な機械を開発した。そして、努力をして子供4人を育てた。 
 
私は大学を卒業してニューヨークに行ったのだが、その1年後にオヤジは胃癌に倒れた。そして、56年の生涯を閉じたのである。 
 
ゴルフだけが趣味だったが、それも下手で、だがみんなに好かれていた。私はオヤジに楽をさせてやれなかったのが、唯一の心残りである。 
 
 
 
(おまけの話) 
おふくろは大正生まれであることだけは間違いない。 
オヤジとおふくろは、保険屋の勧誘員の紹介で見合い結婚をしたそうだ。 
 
オヤジはブラジル帰りなので、ただ1つの条件は「モダンな人」を希望したという。 
 
 
 
おふくろには兄2人、姉1人がいる。 母親は早くに亡くなり、叔母に育てられた。父親も30代で亡くなってしまったので、子供4人だけが残された気の毒な家族だった。 
 
それでも、亡き父が西麻布に何軒もの家作を持っていたので、お金には困らず、誰も働いていないのに、みんな大学まで出ている。 
 
 
 
おふくろは几帳面だけが取り柄のような女で、子供にも口やかましかった。心配性でもあったので、オヤジが正月休みにハワイに行こうという誘いを断った。「お金がもったいない」というのが、その理由だった。 
 
オヤジが亡くなった後におふくろは、「あの時にお父さんの誘いに乗ってハワイへ行っておけば良かった」としきりに後悔していたが、その時は遅かった。そして、ある寒い朝に、86歳で心臓発作でベッドの脇で亡くなっていた。 
 
 
 
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心の伊達市民 第一号
心の伊達市民 第一号
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。 
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