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[2019.07.30]
■ニューヨーク・ショート・ショート(1) 
 
年を重ねると、昔のことばかりが懐かしく思い出される。 
若者は「だからジジイは嫌だ!」と言うが、その気持ちも分かる。 
私の若い頃も、そうだったからである。 
でも、その年にならないと分からないこともあるのを、若者は知らない。 
 
絵本「This is New York」の復刻版はアマゾンで買える。(1616円) 


色々と思い出すことは山ほどあるが、それも霞が掛かってしまい正確ではなくなる。意外なことだが、仕事のことはあまり思い出さない。 
 
1964年にニューヨークで世界博覧会が開催され、私はその時の従業員募集に応募して運良く合格してニューヨークに渡った。 
その時はまだ一般人は自由に外国に行けない時代だった。 
 
「Times Square」 
 
 
日本政府の肝入りで世界博会場に日本館が建てられて、お城の石垣をイメージした劇場付レストランがオープンした。 
 
一般応募の素人の私達は12人で、それにプロの調理師、ウェイター、マネージャー、キャッシャー、そして素人の短大卒以上のウエイトレスが120人くらいいた。 
 
いま日本で言うところのマンションに男女が分かれて住み、楽しい時間を過ごしたのである。 
 
 
この時に一緒に行ったメンバーはその後もお付き合いが続き、時々、同窓会を開いたが、それも50周年を区切りで終りとなった。 
 
仲間の「12人のその後」は、やはりアメリカに関わった人生を歩んだ男が多かった。 
消息不明は1人、割合に早く亡くなった男が1人で、残りは健在である。 
 
 
アメリカの新聞社のカメラマンとなった男、アメリカに小型モーターを売り込み上場企業の役員となった男、アメリカで通販会社を立ち上げ、それを売却して外国大手レコード会社の日本法人の社長となった男。 
 
アメリカからソフトウェアを輸入する上場企業の社長になった男、ハワイアン航空の日本支社長になった男、キャセイパシフィック航空に就職し、その後、家業に戻った男、そんな中で私はオヤジの急死で家業の工場を継ぐ羽目となった。 
 
ブルックリン・ブリッジ 
 
 
人生に「もしも」は無いが、オヤジが亡くならなければ私もアメリカに関わった人生だったと思う。 
それが少し残念だが、アメリカに関わって破産していたかもしれないのだから、「もしも」は駄目だ。 
 
しかしながら、あの時の経験がその後の私の人生に大きな影響を与えたことは間違いなく、家業の工業を通して外国と関わりたいと思い、その努力はした。 
 
 
それが海外好きとなり、時間を作っては色々な国に行ったのだろうと思う。私は物欲は無かったので、ブランド品は持っていない。その分を海外旅行に使ったのである。 
 
思い出は美化される。 
まして年をとると、その傾向が強くなると思っている。 
あの時(1964年)にマンハッタンの書店で買った「This is New York 」という絵本を、時々、出しては昔を偲んでいる。 
「あの頃は良かった」と言って、また若者にバカにされそうだ。 
 
 
 
(おまけの話) 
NY博の日本館で私はウエイターの下で働いていたが、時々、やって来るアメリカ人がいた。 
その人と仲良くなったら、「家に遊びに来い」と言われた。 
 
1人では怖いので、上司のウエイターと2人で行った。 
その時にそのアメリカ人の男は、奥の部屋から汚れた寄せ書きのある日章旗を持って出て来た。そして「これを日本に返したい」と言った。 
 
「ニューヨークの魔法」シリーズ。・・・★★ 
 
 
まだ英語も上手でなく、また日米が戦った戦場のことも詳しくは知らなかった。いま思えば彼はPTSD障害を抱えていたのかもしれない。 
 
そして日章旗を日本に返すことで、戦争の悪夢から解放されたかったのかもしれない。その時に私は詳しい話を聞けなかったのが、今でも心残りになっている。 
 
またある時に別の男に家に招待された。 
彼はセントラルパークの左側の殺されたジョン・レノンも住んでいた超高級住宅街に住んでいて、有名なファッション・デザイナーだった。 
 
「ニューヨークの魔法のことば」、「ニューヨークの魔法の約束」 
BOOKOFFで100円で買ったが、面白かった。 
 
 
どうも雰囲気から彼はゲイらしかったので、この時も怖いので友人を誘って一緒に行った。 
この人はもの凄い金持ちで、高級マンションのワンフロアを占有していて、部屋の中には噴水があったり、インコが飛んでいた。 
 
彼は私が1人で来ると思っていたらしく、急に私に興味を失い私達には構わずにインコと遊んでいた。 
なんだか居ずらくなり、1時間ほどでマンションを出た。 
まだまだあの時は色々な経験をしたが、みんな霞の彼方に消えて行ってしまった。 
 

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心の伊達市民 第一号
心の伊達市民 第一号
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。 
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