今回は暗い重い話である。平和ボケした日本人に、見て欲しい資料館訪問記である。
新宿住友ビルの33階に「帰還者たちのミュージアム」という、総務省委託の施設がある。
HPを見ると、「帰還者たちの記憶ミュージアム(平和祈念展示資料館)は、さきの大戦における、兵士、戦後強制抑留者および海外からの引揚者の労苦について、国民のみなさまに、より一層理解を深めていただくため、・・・』
『関係者の労苦を物語る様々な実物資料、グラフィック、映像、ジオラマなどを戦争体験のない世代にもわかりやすく展示しています」と書いてある。

住友ビル33階は、現役時代の私には大いに関係があった。
「帰還者たちの記憶ミュージアム」と同じ33階に東証一部上場会社のD社があり、私の会社の最大の取引先だった。ここにあった事務所には何度も訪問していたが、このビルが古くなり他へ移ってしまった。
多くの有名企業がここを去り、住友ビルは大改造を行い、1階の広場をつぶしてビルにスカートを履かせたような構造になった。
エレベーターで33階に上がると、昔の面影はなく、なんとなく暗い感じがする。
「帰還者たちの記憶ミュージアム」の入口で資料をもらい、中に入った。
最初のコーナーは「引揚げ」である。
スマホで展示の番号を入れると、説明が出るようになっている。

私のオヤジは兵隊に取られなかった。
その理由は「若い時にブラジルに渡り戦争の少し前に日本に戻った」ので、徴兵の資料漏れではないかと私は思っている。我が家だけ他の家と違い父親がいたので、母も心強かったのではないかと思う。
終戦の時に私は3歳だったので、戦争のことはほとんど覚えていない。
僅かに覚えているのは、空襲があると庭に掘った防空壕に逃げ込んだことだ。
いまにして思うが、爆弾が近くに落ちたら、泥の防空壕はなんの役にも立たなかっただろう。かえって生き埋めの危険があったのではないだろうか?

「抑留」のコーナーに行くと、「抑留が行われた背景」の説明文がある。
説明文によると『シベリア抑留が起ったのは戦後である。大戦末期、ソ連は日ソ中立条約を破棄して中国東北部や朝鮮半島、南樺太に侵攻した。全体として対抗しうる戦力がなかった関東軍のほとんどは、各戦闘地域で武装解除ののち、ソ連の捕虜となった。・・・』
『その数は61万1237人であった。日本の敗戦直前に突如敵国となったソ連に、戦争行為が終了したのち送られた大量の日本人将兵は、その後、長期間にわたって建設作業等に従事させられることになった』。
その抑留期間中に栄養失調や病気で、5万5000人が亡くなっているのである。

抑留された将兵の中には有名人もいた。
演歌歌手の「三波春夫」と、作曲家の「吉田正」が写真と共にその頃の話を書いている。
「三波春夫」は浪曲で鍛えた美声で知られ、歌謡曲の衣装に初めて和服を使用した男性歌手でもある。彼の言った「お客様は神様です」は有名である。1945年10月にハバロスクノの捕虜収容所に送られ、その後22歳から26歳までの約4年間、シベリア抑留生活を過した。
「吉田正」も10月に捕虜になり、シベリアに抑留された。
従軍中に作曲して「大興安嶺突破演習の歌」に抑留兵の1人が「昨日も今日も」という詩を付け、詠み人知らずで抑留地に広まり歌われた。これが後の「異国の丘」である。
2人共、「歌があったので生き延び」たと語っている。

私は22歳からゴルフをやっていたので、その頃に一緒にプレイした人達はほとんど20歳以上の年上だった。いつも一緒だったのは作詞家の「星野哲郎」で、彼は私の家の近くに住んでいたのでいつも私が車で迎えに行った。
彼は山口県の生まれで、現在の東京商船大学卒で、日魯漁業のトロール船に乗ったが2年で結核で下船した。船乗りを続けたかった彼は海軍にも行けず、いくつになっても海への憧れを語っていた。
ゴルフ仲間にはロシア人と日本人の混血の人がいたが、彼はソ連による抑留をどう思っていたのだろう?
小柄なIさんは戦争前は台湾で衣料品の大きな会社を経営していたようだ。彼は極端に戦争の話を嫌がっていたが、よほど嫌な思い出があるのだろう。私は父親を含め戦争を体験して来た人達に、もっと話を聞いておけば良かったと今頃になって思っている。

終戦になり、各地から日本へ戻る人達が320万人ほどいたらしい。
多くは満州から引き揚げて来たが、終戦間際のソ連の参戦で多くの日本人が犠牲になった。特に女子供は悲惨で、引揚船に乗るまでに命を落とした人も多かったようだ。
引揚船の船底の実物大の模型が展示してあるが、女子供ばかりである。
「帰還者たちの記憶ミュージアム」のホームページを開くと、「バーチャル資料館」というサイトがある。そこをクリックすると、館内の様子が全て見られる。
【バーチャル資料館】・・・平和祈念展示資料館

(おまけの話)
館内には漫画家が寄せた絵も展示してある。
多くの漫画家の絵が展示してあるが、私の知っている漫画家は「ちばてつや」と、「赤塚不二夫」だった。「ちばてつや」は1939年の生まれだから、終戦時には6歳か7歳だったようだ。
彼とは知り合いではないが、彼の弟が私と同じゴルフクラブに所属していて、一緒にプレイしたことがある。自分から名乗ってくれたので分かったのだが、兄のプロデユーサーのような仕事をしていたようだ。
プレイが終り風呂を出たところで、彼から「ちばてつや」の描いた「なにか」をもらったが、何だったは忘れてしまった。

このミュージアムには色々な持ち帰れる資料が置いてあるし、図書を集めた資料室もある。私は何気なく「遥かなる紅い夕陽」と「シベリアからの手紙」を手にした。
どちらの小冊子も「帰還者たちの記憶ミュージアム」の発行の漫画である。
私は漫画は殆ど読まないが、この小冊子は出来が良いので最後まで読んでしまった。
ページ数も60ページほどで、子供たちが「引揚時の苦労」、「シベリア抑留の理不尽」などを理解するには良い資料だと思う。
私の年代の者なら知っている内容だが、今の若者にも読んでもらい、あの時代のことを知って欲しいと思った。

出口の近くの映像室に行くと、正面のスクリーンに映像が映し出されていた。
数人が席に着いていたので、私は静かに後方の席に座った。
スクリーンには高齢男性の「語り部」が出ていて、特攻隊に参加した若者たちの話をしていた。若者はみんな20歳前後で、自分の「死」は覚悟している。
そして故郷の母や妹を心配している。「自分の分も長生きして欲しい」と願っている。
特攻隊の話は今までにも多く聞いているが、悲しい話である。
6月30日から企画が変るので、次回は「都心を歩かない会」のメンバーと来るだろう。

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北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。
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戦争は犯罪である。今なお海外のあちこちで戦争という犯罪が続いている。犯罪は「一発勝負の賭け事」である。それで大儲けをする人間、負けて悲惨な状況に陥る人間、全て戦争という犯罪によるものであろう。太平洋戦争が勃発した時はまだ目も見えず、泣くだけであった私なので、戦争の事は全く記憶にない。それだけに日本人の犯した戦争という犯罪の記録を見て日本人として反省しよう。
私の父はビルマに配属され、九死に一生をえて帰国した。帰ってみれば家も商売も全て灰になっていた。まったくゼロからの生活を始めなくてはならなかった。私が小中学校の頃、父が戦争のことを話し始めると、夕食は暗くなり、皆、その話を避けたがった。今になって、もっと聞いておけばよかった、今なら面と向かって悲惨な話を聞けたのに、と心から思う。
「帰還者たちのミュージアム」という、こんなミュージアムがあることに、感謝します。紹介をありがとうございます。