新聞に「東京3大銅像」という記事が出ていた。
その銅像は「大山益次郎像」、「西郷 隆盛像」、「楠木正成像」だそうだ。
その写真を撮ろうと思い立って、「他にどんな銅像があるのか?」を調べてみた。
すると「TOKYO 銅像マップ」というサイトがあり、都内だけでも100体以上の銅像があることが分かった。今回はその内の手近な10体の写真を撮りに行った、バカバカしい話である。
【親鸞聖人】(1173~1262年)・・・「築地」
先ずは手始めに私の菩提寺である「築地本願寺」で、そこには「親鸞」像が立っている。
親鸞聖人は浄土真宗の「宗祖」で、阿弥陀仏の救いを信じる「他力本願」を最も重視している。

【伊能 忠敬】(1745~1818年)・・・「門前仲町」
「伊能 忠敬」の子孫が私の兄の同級生だったので、私は誘われて彼の生誕の地「千葉県佐原市」に行ったことがある。
ところが伊能忠敬の銅像が「富岡八幡宮」の大鳥居をくぐった左側にある。
「なぜなんだろう?」と以前から疑問だったが、今回のブログのために調べて分かった。
彼は50歳で家督を譲り江戸に出て、55歳(1800年)から71歳まで10回にわたり日本全国の測量を歩いて行った。作成した地図は極めて精度が高く、ヨーロッパでも高く評価され、明治以降国内の基本図の一翼を担った。
江戸に出て住んでいたのが富岡八幡宮のすぐ近くの「黒江町」で、1800年6月1日早朝に富岡八幡宮に参拝し蝦夷地測量の旅に出掛けたのである。
そんな縁があったのだと、はじめて知った。いま風にいえば「スーパー爺さん」である。

【野口 英世】(1876~1928年)・・・「上野公園」
彼の名前を知ったのは、小学生の頃に親が買ってくれた本に出ていたと記憶している。
『1歳半の時に左手に大やけどを負ったが、その時の手術で医学の素晴らしさを実感し、自らも医学の道へ進んだ。アメリカのロックフェラー医学研究所を拠点に世界で活躍した。しかし1928年に西アフリカの(現)ガーナ共和国で黄熱病の研究中に感染し51歳で亡くなった』。
では「なぜ上野公園に野口英世の銅像があるのか?」と思い調べてみたが、はっきりした理由は分からなかった。日本医師会、北里研究所、野口英世記念会などが皇居前や日比谷公園への設置を希望していたが、それが叶わず上野公園になったらしいとだけ分かった。

【夏目 漱石】(1867~1916年)・・・「新宿区」
彼は現在の新宿区喜久井町で、名主のもとに生まれた名家の出である。
私は彼の本はたぶん1冊くらいしか読んでいないが、「三四郎」、「吾輩は猫である」、「こころ」などが有名である。漱石は政府から命じられ2年間、ロンドンに留学したが、神経症に苦しみながら与えられた課題とは異なる文学研究に打ち込んだ。
銅像は大江戸線「牛込柳町駅」から徒歩10分くらいの、区立「漱石公園」の中の「漱石山房」の入口にある。
「漱石山房」は漱石が晩年の9年間を過ごした場所で、小さな資料館がある。

【武蔵坊 弁慶】(1149年?~1189年?)・・・「人形町」
歌舞伎の十八番となっている「勧進帳」で弁慶は有名であるが、彼は比叡山で修業した本物の山伏である。比喩として「内弁慶」、「弁慶の泣き所」という言葉の由来になっている。『内弁慶とは「内=家」では威勢が良いが、外ではからっきし弱いこと』、『弁慶の泣き所は「脛」の骨部分』である。
人形町駅からは少し離れているが、浜町公園に「弁慶像」がある。
私は仏像彫刻を習っていた時に、この像の写真を撮って木彫りの弁慶を彫ったことがある。今回、初めて写真で並べてみたら、私の彫刻は丸顔で小太りだった。

【吉田 茂】(1878~1907年)・・・「北の丸公園」
「吉田茂」と言えば、「バカヤロウ解散」ばかりが有名である。
これは1953年2月28日の衆議院予算委員会で、吉田茂首相と社会党右派の西村栄一議員との質疑応答中、吉田首相が西村議員に「バカヤロウ」と発言したことがきっかけで衆議院が解散されたことからこう呼ばれている。
しかし吉田首相が大声で「バカヤロウ」と言ったのではなく、彼は席に着いた後に小声で「バカヤロウ」と呟いたのをマイクが拾い、それに気づいた西村議員が咎めたために騒ぎが大きくなり解散となったのが真相のようだ。
銅像は北の丸公園を九段側から入ると、一番奥近くの清水門への道の左側に立っている。

【勝 海舟】(1823~1899年)・・・「墨田区役所」
彼は現在の両国にある「両国公園」が生誕の地である。そこには記念碑はあるが銅像は無い。勝 海舟は坂本 竜馬の師匠というイメージが強い。
資料によると『幼少より蘭学を学んだ海舟は青年になると長崎海軍伝習所に入り、咸臨丸で渡米する。帰国後は軍艦奉行並となり、神戸海軍操練所を開設し坂本 竜馬と出会う。大政奉還の際は西郷隆盛と渡り合い、江戸無血開城を実現した』とある。
彼の銅像は大江戸線「本所吾妻橋駅」から徒歩数分の、墨田区役所にある。
早速、行ってみたが無い。受付で聞いたら、『エスカレーターで2階に上がり、向かいのドアから外に出る。その右側にある』と教えられた。
そこは広場になっていて、お隣は昨年、サイバー攻撃を受け、流通が大混乱となった「キリンビール」の本社である。

(おまけの話)
新聞記事に出ていたが、「東京三大銅像」というのがあるそうだ。
どれも見たことがあるが、今回はその写真を撮りに行った話である。
「東京三大銅像」というのは、明治維新後にヨーロッパの銅像文化に感銘を受けた明治政府の要人によって、日本でも西洋の鋳造技術を取り入れて建てられた銅像である。
【大山益次郎】(靖国神社 1874~1924年)・・・「靖国神社」
靖国神社の参道を進むと、中間あたりに「大山益次郎」の銅像が立っている。
資料によると『薩摩藩の出身で初代陸軍大臣として、ドイツ式の軍制改革に着手した。また靖国神社の前身である戊辰戦争の戦没者を祀る「東京招魂社」の創設に尽力した』からだそうだ。更に私は彼のことを調べていて分かったが、西郷隆盛に従弟だそうだ。

【西郷隆盛】(1828~1877年)・・・「上野恩賜公園 」
公園に入り右側の石段を上ると、普段着で愛犬を連れた「西郷隆盛」像が立っている。
資料によると『明治維新の指導者である西郷隆盛は明治10年(1889年)の西南の役で、天皇や朝廷に敵対する勢力である朝敵となり死亡した。その後、明治22年には大日本帝国憲法発布に伴う大赦で復権した』とある。
この像を調べて分かったのだが、彼の出身地である鹿児島にある銅像は軍服姿で、少しびっくりしたのは渋谷の「忠犬ハチ公」の制作者である「安藤 照」の制作だった。
生誕地の銅像が完成したのは1937年で、上野公園よりかなり後だった。

【楠木正成】(1294~1336年)・・・「皇居外苑」
東京駅から歩いて馬場先門の交差点を過ぎて皇居外苑に入って、左へ行くと「楠木茶房」というお茶屋があり、その前に銅像が立っている。「楠木正成像」が皇居外苑にあるのは『彼が忠義を象徴する人物だからである。彼が命を懸けて尽くした後醍醐天皇への忠誠は、明治時代になっても日本の中心の皇居前に像を建てられた』のだそうだ。
この像の姿は鎧兜に身を固め騎馬にまたがる勇ましい姿で、後醍醐天皇を出迎えた際の勇姿を表している。ブログを書くようになると人物、建物、アートなどの説明が必要になり、ネットで調べることが増えた。お陰で知識が増えたように感じているが、それも一時で、すぐ忘れてしまう。これも年のせいだ。

\ この記事をシェアする /

コメントはまだありません。
コメントを書く