■即身仏 6 本明海上人
以前にも書き込んだのだけど、湯殿山の近辺の庄内地方には、現在6体の即身仏が現存している…。その現存している中で、一番古いというか一番最初に即身仏になった方が、今回紹介する本明海上人です。が、一番古いからか、あまり縁起等が残っていないのも、現状でして…。ただ、毎年大坂住職はじめ、皆さんにお世話になっていますし、何故か私自身、一番惹かれるお上人さまなのもあり、今回取り上げてみました。
さすがに、6回目なので、飽きて来た方も多いと思いますが、興味のあるマニアックな方は、是非最後まで読んでほしい…。
鶴岡市東岩本というところに、本明海上人が祀られている本明寺がある。その本明寺には、本明海上人が入定した入定跡が残されていて、立派な石碑が建っており、そこに書かれた縁起や口伝、「本明海宗和上人即身仏略縁起」から判断すると、他の即身仏さまは、農民や町民が多いのですが、この本明海上人は、武士だったようなの…。他の即身仏で武士だった方は、酒田の海向寺に安置されている忠海上人だけで、まして本明海上人と忠海上人は、親戚筋というか甥だったようだから、忠海上人もその土台はあったんでしょうね…。

この事が、富樫吉兵衛に回心(宗教的転機)をもたらすきっかけになっちゃったようで、彼は藩がいくら戻って来るように命じても、湯殿山・仙人沢にとどまって、ついには注連寺に行人として入って修行三昧に入ってしまう…。再三の帰って来い!コールを無視したせいか、藩主の怒りに触れて召放されて、家族の者も追放処分を受けてしまう。ただ、本明海上人になった彼の霊力や地域に対しての布施がすごかったのか、しばらくすると忠当の怒りも和らぎ、せがれ藤左衛門の帰参も許され、東岩本の心月上人の庵の跡に再興した寺に、不動山本明寺という寺号を与え、70石あげの田地と8町歩(8ヘクタール)の山林を寄進されたとされている。
上人は延宝5年(1677年)から木食行をはじめ、5穀断ちする事3年、その後10穀断ちをさらに3年続け、その後は、松の木の皮を剥がし、その内側にある薄皮を食す事なお5ヶ月…天和3年(1683年)、信者の富樫弥右衛門という者に、「3年3ヶ月経ったら塚を開いて、遺体を取り出すように!その時自分は必ず即身仏になって、世の人の苦しみを救うであろう…」と遺言し、境内の一角に塚を設けて入定したそうだ。

以前にも紹介した鉄門海上人や仏海上人も、この本明寺を再建していて、彼らも本明海上人に感銘していたに違いない…。ただ、湯殿山のご神前で、どのような啓示を受けたのか?何故この地方の一番最初の即身仏になったのか?辞世の誓願などは、解かっていない…。
実はこの本明海上人、目が黒というか青というかそういう色で、塗られてしまっている…。その原因は参拝者が上人さまの目が即身仏のワリに生々しく光が強いのに恐怖心を抱くため塗った!という説と、お上人さまが入られている厨子を作る宮大工さんが、「この上人さまの目が気持ち悪い!」という理由で、漆で暗く塗ってしまったという説がある。但し、後者のほうは後日談があって、その宮大工さん1週間もしないうち、両目とも潰れてしまったそうだ…。
現在のご住職の祖父にあたる天海さんも、元々青森の方だったようなんだけど、少年時代に失明しかけたが、人に勧められて参籠したところ、元の目に戻ったので、報恩のため本明海上人に仕えて、自分の一生を終えようと決心した方で、このお上人は昔から、眼病によく効くと言われている。
私個人的に、一番荒らされてないというか、古いからなのか解かりませんが、一番霊力が強い上人さまに感じます。もし、興味があったり、本明海上人さまに縋りたい方は、是非に!但し、普段は現在の住職方たちが、家族や総代さま方だけで守っているお寺なので、観光地ではないから、事前の連絡と厳かな気持ちで参拝していただける事を付け加えておきましょう…。
いつも、即身仏さまのコラムになると長くなってしまいますが、最後まで付き合ってくれた方、ありがとうございます。感謝します。また、違う即身仏さまも、1年に1回くらいは、紹介して行きたいと思います。