■日光東照宮
日本を代表する社寺として、1999年に世界遺産に登録もされている日光東照宮…。元々、徳川家康の「日光に小さな堂を建立して祀るように!」という遺言に基づき建造されたそうだ…。3代将軍の座に就き家康を崇拝していた家光が、大規模な社殿の造営を命じる。徳川幕府の威信をかけ、日光東照宮の造営が進められ、工事に関わった総延べ人数は650万人にものぼる。1日平均に換算すると1万3000人になる。費用も当然莫大であり、完成までに現在の貨幣価値にして400億円以上がつぎこまれたといわれている…。
そんな徳川幕府の大事業だから、日光東照宮の建築様式は”和”の建築様式がふんだんに盛り込まれているのでは?と思われがちですよね?当然、2代将軍秀忠時代から鎖国政策が始まり、家光の治世に完成したため、海外の文化を徳川家を祀る神社に採り入れるとは考えづらいのも事実ですもんね…。ところが!建築様式や意匠等、当時は禁制とされていたはずのヨーロッパ・キリスト教文化が、驚くほど随所に反映されている。
大鳥居前の石段からすでに西洋建築美の影響が見られる。石段が奥へと登るにつれて先細りとなる、大鳥居までが実際よりも遠くに見える遠近法が用いられている。この遠近法は、他の場所でも確認する事が出来て、東照宮本殿の奥に進むに従い、柱の間隔は規則的に短くなり奥行きが感じれれるようになっている。これもルネッサンス・バロック時代の建築美と共通するし、他にもキリスト教教会のステンドグラスに似た色彩効果をもたらす額縁まで存在する。なぜ?家康の霊廟に西洋美を取り入れたのか?造営奉行、設計施工担当の棟梁、絵画部門も、当然のごとく日本人であり、そこに西洋文化の影は見出す事は出来ない…。大工の賃金まで記録されているにもかかわらず、西洋文化の影響に関する記録は存在てしない。

包まれる。なぜ?陽明門には5色すべてを配したのか?これも難問ですよね?
そもそも東照宮の色彩は陰陽五行説により、魔除けの願いが込められているといわれている。陰陽五行では地球上のすべては5つの元素で成り立っているとされ、5元素を示す色が白・赤・黒・黄色(金)・青とされた。この5色は、古来より魔除け用に配すると良い色彩とされて来たから、東照宮もそれに習ったんでしょうね。
同様の意味合いが陽明門に彫り込まれている彫刻にも当てはまる。動植物から神獣、人物までが精密に彫り込まれており、その総数は508もある。他の建造物に比較すると、龍の彫刻が圧倒的に多く、これも、彫刻の面でも陽明門が気の流れが集中する場所であるためだ!とされている。
少し長くなって、申し訳ないですが、ここからが面白くなる所だから付き合ってもらえたら、徳川家康は日光東照宮を自身の霊廟として、遺言に残すほど念を入れていた…。何故、わざわざ日光という地に縁の深い人物ではなかったはずなのに…。この謎を解く鍵が「北極星」だという説がある。
日光東照宮のある恒例山を日本地図で見ると、東経139度36分にある事が確認出来る。そして家康が幕府の拠点とした江戸城も同様に確認すると、139度45分。経度にしてわずか9分の差しかない。要するに、東照宮は江戸城のほぼ真北に位置いている!家康が北極星に高い関心を寄せていた事は、お抱えの儒学者・林羅山の記録等からも明らかで、真北に輝き、他の星が周囲を回るのを、宇宙を支配する不動の存在と捉えていたのではないでしょうか?日光を霊廟としたのは、天下人となる家康は宇宙の支配者北極星を背に、遠く徳川家が支配する江戸城を見つめるためだったのではないでしょうか?

当然、平安時代から続く鬼門の概念も配慮したに違いない。平安時代から日本では不吉な方角として北東を「鬼門」、反対の南西を「裏鬼門」と忌み嫌って来た。日光東照宮の鬼門と裏鬼門を見ると、毘沙門天や日光山を開山した勝道上人の霊廟があり、鬼が入りにくい鬼門封じがされている。
家康の死後、久能山東照宮に眠っていた家康の死骸を日光へと改葬するのに尽力した僧がいる。それが「天海」で、家康の信任が非常に厚く、天台宗の僧侶としてだけでなく、政治や軍事顧問としても暗躍した!とされている。常に家康の側に控え、家康に進言した意見はすべて採用されたと「徳川実紀」に書かれている。家康の死後も秀忠、家光に仕え、130歳を超えるまで生きた説もある謎の人物…。この天海の正体が本能寺で織田信長を討ちながら、豊臣秀吉に返り討ちにあった”明智光秀”であるとする説がある!
この説は、光秀が逃げ出し比叡山に落ち延びたところから始まるのだけど、比叡山の僧たちは信長に焼き討ちされた恨みもあって、彼を討った光秀を厚く保護した…。僧「天海」になった光秀は家康に秘かに接近…。家康は信長と盟友関係にあったが、信任を得るために嫡男・信康を自害させらた事もあり、信長への怨恨の思いを抱いていたのではないか?その恨みを晴らしてくれた光秀は軍師としても名高いから、そこでブレーンに加えた!というのが天海=明智光秀説の概要なんだけど…。

光秀が「天海」だと納得する面がかなり多いのだけど、最もたる例だと言われているのが、豊臣秀吉の死後、家康が豊臣家殲滅のために仕掛けた大坂冬の陣と夏の陣である。家康は秀吉の後継者秀頼が寄進した方広寺の鐘の鐘銘「国家安康」が家康の名を分断する侮辱極まりない銘だと、戦開始のきっかけとした…。実はこの鐘銘への不満を進言したのも天海だったという…。天海=明智光秀だとすると、結果的に光秀は秀吉への復讐を遂げた事となりますかね…?