伊達市地域生活情報マガジン『むしゃなび』へ ブログ★むしゃなび トップへ [今日:1] [昨日:0] [2091] rss feed
[2011.11.01]
■玉藻前と殺生石
 栃木県 那須野地方に伝わる伝説…「玉藻前と殺生石」は、次のような話で…。 
 
 子供に恵まれない夫婦によって育てられた玉藻前(少女時代は、藻女と呼ばれた)は、美しく成長し、18歳から宮中でつかえ始め、後に鳥羽上皇に仕える女官となった。次第に、上皇に寵愛されるようになった玉藻前は、ある日、上皇と契りを結ぶ…。しかし、その後、上皇は病に伏せるようになり、医者が病の原因を調べても解からないため、陰陽師の安倍泰成(安倍泰親、安倍清明とも言われている)が調べたところ、病の原因は玉藻前で、その正体は、白面金毛九尾の狐であると、暴露されてしまう。玉藻前は、九尾の狐の姿のまま宮中を脱走、那須野に逃げ去った…。 


 その後、那須野では、九尾の狐が婦女子をさらう等の悪さをし始める。領主・須藤権守貞信は、耐え切れなくなり、上皇に相談した。上皇は、三浦介義明と上総介広常を将軍に、陰陽師・安倍泰成を参謀に任命し、8万余りの討伐軍を編成して、那須野に向かわせた。討伐軍は、九尾の狐姿の玉藻前を囲むが、怪しげな術により、多くの兵を失い、失敗に終わってしまう…。その後、討伐軍は、犬追物等で訓練を重ね、再び討伐に出掛ける。結果、今度は優勢になった!玉藻前は、貞信の夢の中に現われて許しを乞うたが、討伐軍は戦いを続け、三浦介の矢が脇腹と首筋を射抜き、さらに上総介の長刀が斬りつけ、九尾の狐を倒す…。 
 ところが、九尾の狐は死後、巨大な毒石に変化した!石に近づく人間や動物等の命を奪い、石の周りは、それらの死骸であふれたようで、村人達は、この石を「殺生石」と名付けた。全国から名僧と言われた数多くの僧たちが、鎮魂のためにやって来たが、彼らでさえ、毒により、次々と倒れて行ったらしい…。 
 
 そのような物なので、誰もが殺生石のそばに立ち寄ろうとはしなかったが、室町時代に入り、会津から都へ歩いて帰ろうとしていた玄翁和尚が、殺生石に立ち寄った。和尚は、殺生石の事をまったく知らないまま、その側で一夜を明かしてしまう…。寝ていると、石の精になった玉藻前が、女の姿となって現れた…。玉藻前は、自分が天竺の野に住んでおり、千年の功を積み、天羅国、シナの国、そして、日本で犯した悪行の数々を正直に告白し、今までの罪を許して欲しいと和尚に頼み込んだという…。 
 和尚は石の前で熱心にお経を読み、殺生石の霊を祀った。そして、お経が済むと立ち上がり、呪文を唱えながら、杖で3度石を打つと、ついに石は小さく割れ、欠片は各地へと飛散した。その後、旅人が通っても、災いが起こる事がなくなったという…。 
 
 ちなみに、この話は、室町時代に御伽草子や謡曲として演じられた他、江戸時代に入ると、人形浄瑠璃や歌舞伎でも人気を集めた。書物としては、高山蘭山「絵本三国妖婦伝」や式亭三馬「玉藻前三国伝記」に残っている。 
 
 また、玉藻前のモデルは、鳥羽上皇に寵愛された皇后・美福門院(藤原得子)と言われている。名家出身でもない彼女が、自分の子や猶子を帝位につけるよう画策したり、保元の乱を引き起こしたりといった行動は、悪女に見えたんでしょうね。この殺生石、実は今でも那須湯本温泉近くにあって、現在でも怪しげな雰囲気を漂わせ、人たちを惹きつけているんですけどね…。 
▼トラックバック(0)
このエントリへのトラックバックURL:
現在トラックバックの受信を停止中です
▼コメント(0)

▼コメントを書く...
*必須入力です
 「コメント」欄は日本語で記入してください。
 英字数字のみだと、コメントと見なさず投稿できません。
※コメントは承認後に掲載されます。
*お名前:
メール:
URL:
*コメント:
PROFILE
タリズマン・マスター
タリズマン・マスター
1995年から、この伊達市に、占いスペースを開き、運命アドバイザーとして占いをおこなっています。  
札幌、苫小牧など、遠方よりお越しになる方も、多く占わせていただいています。  
 
占いに使うアイテムは、タロットカード、占星術、など、多岐にわたりますが、アイテムをガイドとして使いながら、霊感によって、その人の本質を霊視します。  
この仕事についたのは、運命だと思っています。 
ブログ検索