■唐松神社
秋田県大仙市協和境にある唐松神社は、かなり不思議な雰囲気というか佇まいを持った神社で、訪れた者を驚かせずにはいられない…。通常、日本の神社で社殿へ辿り着くには、鳥居をくぐり、石段を上がり、上の方へ向かって行くのが通常というか、一般的なんだけど、ここの唐松神社では、杉の大木がそびえる参道を徐々に下り、低地の社殿へ到るという独特の空間配置がなされている。参道より下がった位置に神様を奉るという尋常ならざる空間配置は、他には奈良県の広瀬神社等にも見られるが、極めて稀な例であるのは間違いない…。
また、社務所の左側にある天日宮の建築様式を見ると一層、この神社が異様である事に気が付く。社殿そのものは別段変わったところはないが、その土台に注目すると、目を疑わざるをえない!自然石何十万個かを用いて3段の円形状の丘が築かれ、その上に社殿が鎮座、周囲に堀を巡らすという、独特の構造が施してある。丘の基底部の直径は20メートルほどで、こうした例は、全国神社は数多くあれど、他ではまったく見られないもので…。現在の天日宮の建造年代は明治時代と比較的新しいものとされているが、その様式は太古から伝わる古式であるという…。

唐松神社の祭神は、物部氏の遠祖とされる饒速日命(ニギハヤノミコト)であり、また、この神社の宮司は代々、物部姓を名乗って来たそうだ!いわば、歴史の傍流へと追いやられた敗者の側に立つ神社こそ唐松神社なのではないでしょうか?
では、なぜ畿内にあった物部氏が、当時、辺境であった東北へとやって来たのでしょうか?この辺りの事情を説明してくれるのが、長らく外部者には見る事を禁じられてきた秘中の秘とも言える文献「物部文書」である。「物部文書」は、唐松神社の代々の宮司が一子相伝で継承してきた文献で、「古事記」や「日本書紀」と同様、神々が織りなす神話の世界から、日本という国の成り立ちを説明している。この書は、昭和58年(1983)になって、ようやく一部が公開されたが、大部分は依然として未公開のままになっているというのが現状だ…。

物部家の子孫が神社を建立する際には、中央の朝廷に対し気を遣わなくてはならなかったでしょうね…。それゆえに自らの遠祖を低地に祀ったと考えるのは、私のイメージだけでしょうか?