■聖徳太子
かつては1万円札の”顔”だったですよね…。 我が国に律令制国家が成立する前、まだ神話の混沌を引きずっていた飛鳥・白鳳時代に活躍した歴史上の人物の中で、聖徳太子は、知名度、功績ともナンバーワンですよね?まさに、古代史のスーパースターとも言うべき存在なのは間違いないのではないでしょうか?そのせいか、彼にまつわる伝説は数え切れないほどですよね…。
その中で最も有名なのが、10人もの人間がいっぺんに質問して来たのに対して、聖徳太子がそれぞれに適切な回答を与えたというエピソードがありますよね?その天才性を賞賛して、太子のことを「豊聡耳(とよとみみ)」の異名を持って呼ぶようになったという。
だが実際は、同時多発的な質問に対処したのではなく、次々に発せられる質問を全て覚えていたという事で、彼の記憶力が人一倍抜きん出ていたというのが本当のところであるようなんだけど…。
聖徳太子は、後の用明天皇の子として、敏達天皇3年(574)1月1日に生まれたとされている。太子の本名は「厩戸(うまやと)」であり、これは母が厩の前で出産したという伝説から付けられたという説、あるいは、生まれた場所の近辺が厩戸と呼ばれていたからという説がある。

幼少の頃から聡明で、長じて天皇を補佐し、仏教の伝播によく貢献したため、聖徳太子には数々の天才伝説が立てられた…ただ、そもそも、何故彼は後の世に抜群の存在感を残すほど神がかり的な存在になったんでしょうか?
その第一の理由としては、歴史的な有名人にしては、史実として記述された資料が圧倒的に不足しているところが大きい!我が国最初の記録とされている「日本書紀」が成立したのが養老4年(720)。既に太子の死から100年も経っており、彼が推した仏教も朝廷の中枢まで及んでいる。そのため、太子のスーパースターぶりをより一層強めるためのエピソードが次々と作られていったと考えられる。
その反面、アンチ太子キャンペーンとも言える伝説も残されていて、その最もたるものが、聖徳太子の実在を否定する説!その根拠は、当時中国で書かれた「随書」に、太子に関する記述が無いからだ!という…確かに、実在の人物なら、記述がないのがおかしいくらいのスーパースターですもんね…。
また、日本史の上では叔母にあたる推古天皇と、姉弟だったという説もある。聖徳太子は天台宗の開祖の師の生まれ変わりである!という中国発の仮説、あるいは九州王朝の天皇だったという話等、こちらも枚挙にいとまがない…。

尚、現在の学校の教科書では、「聖徳太子」という呼び名にあまりにもバイアスがかかっているという事で、歴史的な人物として「厩戸王(うまやとおう)」と記すのが一般なんだそうで…。別に私なんか聖徳太子でいい気もするんですけどね…。