■豊浦物語
伊達から北西に車で30分くらい行った所、噴火湾沿いに豊浦町はある。
漁業と農業の町で、特産品として、ホタテ、いちご、豚肉などが名高い。
山が海に迫り、平らな土地が少ない。昔から、蝦夷地の難所として知られ、5箇所のアップダウンの険しい峠道約40kmが続き、往時の旅人は大変な思いをしてここを越えていた。
礼文華(れぶんげ)山道と呼ばれる道である。

海に迫った山は波に侵食されて、急峻な崖や、尖った岩などを作り、優れた海岸美を成している。
明治政府は、北海道の開拓にあたり、当初この険しい山道の開削は避けて、噴火湾の森と室蘭を結ぶ海上輸送を優先した。また、その後は、北海道の本州との玄関口を室蘭にすることによって、この険しい箇所を避けようとした。
しかし、当時北海道の玄関口で栄えていた函館が、噴火湾沿岸の町と共同で、この案に猛反対して、結局政府もこの険しい山道に鉄道を通すことを決断した。
多くのトンネルを穿ち、海の迫る海岸べりの崖を穿ち、苦難の末に鉄道が昭和3年に開通した。長万部と室蘭の輪西を結んだ所から、「長輪線(ちょうりんせん)」と呼ばれた。
「おさわせん」という呼び方が正しいらしいが、人々は通常「ちょうりんせん」と親しく呼んだ。現在の室蘭本線である。
開通当初の頃、この海岸線を訪れて、その美しさに感じて、歌や散文を残した文人も多い。
昭和6年6月、北海道を訪れた歌人与謝野鉄幹・晶子夫妻は、洞爺湖から函館に向かう車窓から、噴火湾のこの美しい風景に堪能して、
「有珠の峰礼文の磯の大岩のならぶ中にも我を見送る」(寛)
と詠んだ。
昭和7年9月、北海道旅行の途中でここを通過した斉藤茂吉は、車窓から現在文学碑公園がある辺りの光景を、
「白浪のとどろく磯にひとりしてメノコ居たるを見おろして過ぐ」
と詠んだ。
話は横道に逸れるが、斉藤茂吉のこのときの北海道旅行は、次兄の守谷富太郎を天塩の志文内に訪ねるセンチメンタルジャーニーであった。
茂吉は、昭和7年8月14日に、末弟の直吉(高橋四郎兵衛)と共に宗谷本線佐久駅に降りた。佐久駅から次兄富太郎の診療所までは、天塩川の支流・安平志内川(あべしないかわ)に沿う山道を登ること12km余り。降りしきる雨に濡れながらたどり着いた診療所で、兄弟は17年振りの再会を果たした。兄弟の生まれは共に山形県で、富太郎は、東京での苦学の末、医療開業試験にパスして北海道に渡り、中川村志文内診療所で拓殖医を務めていた。開拓の成功には医療の充実が不可欠だが、開拓地は極端な医師不足だった。北海道庁が補助金を交付して医師の開業や定着を図ったのが拓殖医制度だった。
当時、交通の未発達な原野や山間部での一人での医療活動は、容易なことではなかっただろう。
一方、茂吉は14歳で上京して、同郷の開業医・斉藤紀一の養子となり、東京帝国大学医学科を卒業後、紀一の娘・輝子と結婚。その後、欧州に留学、帰国の途中で養父の創設した病院が全焼した知らせを受け、帰国後その再建に奔走したりした。
北海道を訪れる前年に故郷山形で長兄・広吉が58歳で亡くなるが、無医村で奮闘する富太郎は葬儀に帰ることもできなかった。その富太郎も56歳になっていた。茂吉は、尊敬する富太郎にいつ会えなくなるかもしれないという切羽詰った気持ちになり、その思いが彼を旅にかき立てたようだ。
5日間の志文内での兄弟水入らずの時間。この間に詠まれた歌に茂吉の気持ちや、富太郎の生活が表れている。
「うつせみのはらから三人(みたり)ここに会ひて 涙のいづるごとき話す」(茂吉)
「ひと寝いりせしかせぬまに山こえて 兄は往診に行かねばならぬ」(茂吉)
「山なかにくすしいとなみゐる兄は ゴムの長靴を幾つも持てり」(茂吉)
「二里奥へ往診をしてかへり来(こ)し 兄の額より汗ながれけり」(茂吉)
「この谷の奥より掘りしアンモナイト 貝の化石を兄は呉れたり」(茂吉)
後に富太郎も次の歌を詠んだ。
「熊の出る峠を一人寂しみて 歌へばなほもひびく山彦」(一塊:富太郎)
兄弟は志文内でのひととき、
茂吉は都会の大病院を率いる心労を、富太郎はたった一人で患者の命を支える重みを吐露し合ったのかもしれない。
茂吉と直吉は、志文内を発ったあと、稚内、樺太、旭川、層雲峡、阿寒湖、札幌、定山渓、支笏湖、白老、函館、湯の川と遠大なる旅を続けた。
礼文華の海岸を歌ったときは、函館に向かう途中だったのだろう。久し振りの兄との再会、大きな北の大地を駆け巡った思い出を反芻していたに違いない。
再び豊浦の話に戻る。
噴火湾では、昭和の初めの頃は、現在よりも多様な魚が獲れた。にしん、いわし、まぐろ、いかなども多く獲れた。特にまぐろは、200kgクラスのものがかなり獲れたが、当時冷凍保存技術や搬送手段がなかったため、遠い市場に流通させることはできなかった。このように獲れた魚も戦後はいなくなった。駒ケ岳の大噴火の影響かとも云われている。
戦後の豊浦で漁業復活のきっかけになったのは、ホタテの養殖事業だった。当時先行して青森の陸奥湾で行われていたホタテの養殖技術を導入して成功させた。礼文華漁協の前には、これを記念して“北海道のホタテ養殖発祥の地”の碑が立っている。今は北海道が、ホタテの生産量の全国一を誇っているが、それもこの地から広がっていった。
貫気別川(ぬっきべつがわ)という川が、豊浦の町を貫き、噴火湾に注いでいる。初め、“ぬっきべつ”と読めなかった。“かんきべつ”だとずーっと思っていた。昔のTVドラマ「寺内貫太郎一家」の影響かもしれない。この川は、洞爺火砕流台地(11万年前に洞爺湖の場所から大噴火が起きて、そこから噴き出した火砕流が遠く日本海の方まで厚く堆積した)の上を浸食しながら流れている。そのためか、現在でも雨の後には、この火山灰層を削りながら流れて、土色に濁った川となる。河口から海に入るあたりが茶色に濁った川色になるのがこの川の特徴だそうだ。この川の河口から約1.5km遡った辺りに、インディアン水車と呼ばれる鮭の捕獲施設がある。川から鮭の誘導路を作り、水車状の器具で鮭を一匹づつすくい上げてプールに導いていく。ここで捕えた鮭は、卵を取り出し孵化事業に供している。わたしも昨年の11月中旬にこの場所で、鮭を大きな網ですくい上げて、コンベア上で卵を取り出し、受精させる作業を見せていただいたことがある。
伊達に4年前に来たとき、梅本町に住んだ。お隣の奥さんは豊浦の出身で、お母さんが今も豊浦に住んでおられて高齢だが農業をされている。このお母さんが自ら育てて、漬けたラッキョウの甘酢漬けは秀逸である。色、艶、味、歯応えが素晴らしい。これには、“おばあちゃんのノウハウ”が入っていて、余人は真似できないとのことである。時々いただいては、酒のつまみにありがたくいただいた。
2009年夏、洞爺湖サミットがウインザーホテルで開かれた。各国の元首を招くので開幕前からこの周辺の警備は厳重を極めた。おばあちゃんの畑は、ホテルの建つポロモイ山の山麓であった。自分の畑に通うにも、毎回警備の警察官から検問を受けた。サミットで一番実害の有ったのは、おばあちゃんかもしれないねと話したことがあった。
◆参考資料
・「伊達市民カレッジ」見学研修“とようら物語”での資料
福田茂夫学芸員・火山マイスターの「豊浦ジオパーク ガイドブック」とお話
・JR北海道 車内誌 2011年6月 特集「茂吉のセンチメンタル・ジャーニー」
(2011-7-26記)