■安曇野の菜の花
朝の連続テレビ小説「おひさま」では、戦前の信州安曇野が舞台になっている。北アルプスの雪に輝く白い峰が時々登場してくる。
主人公陽子のお兄さん春樹は、旧制松本高校に在学している設定で、旧制高校のお祭りに、陽子やその友達が訪ねるシーンもあった。
このドラマの春樹が高校に在学した時より、少し後に、戦中から戦後にかけて、旧制松本高校にいた人物に、辻邦生、北杜夫らがいる。
辻邦生が以前新聞に寄せたエッセーに、この頃の旧制高校に入った喜びを綴った一節がある。
＊旧制松本高校に入ったとき、教室の窓から、じかに、アルプスの山肌が青く見えた。それだけで嬉しく、ぼうっとなったことを覚えている。東京の両親の家から離れ、自由な空気を吸ったことも、この幸福な思いを倍加していたに違いない。
中学の頃は、もう戦争が始まっていたので、それほど簡単に山に登れるような状況ではなかった。それでも深田久弥の山の本やウインパーの「アルプス登攀記」などに刺激され、草津から志賀高原を越えた。雨の中を発哺まで辿りついた初めてのこの山旅は忘れ難い印象を残した。
「高原」とか「白樺」とか「山小屋のランプ」とか、いかにも東京の中学生のロマンティックな心をときめかせる言葉が、この旅で決定的となり、旧制高校は何としてもアルプスの見える町松本でなければ、と思った。
初めて松本駅に下りたとき、山からじかに流れてくる冷たい空気に思わず身ぶるいした。志望校に受かったという喜びもあっただろうが、それ以上に、山の近くにきたという高揚感のほうが強かった。ひなびた城下町だった当時の松本は、尾崎喜八が「日本のグリンデルヴァルト」と呼んだような清潔感と静けさに包まれていた。
下宿で初めての夜を送り、夜明けに雨戸をあけると、目の前に森が迫り、霧がうっすらと流れ、その霧の奥から郭公の声が聞えた。童話の中にでもまぎれこんだような気がした。（後略）＊
（日経新聞 1997-2-20 こころ欄「雲にうそぶく槍穂高」辻邦生より引用）
町から北アルプスの見える、松本に住める喜びが伝わってくるような文章だ。
北杜夫の旧制高校時代を語る文章もある。
＊（前略）
また辻邦生を初め、友人にも恵まれた。そして先生たちが学よりも育を重んずる方々であった。（中略）
また、山が大自然が、ひときわその孤独感を助長させた。自然は調和に満ちていた。それと向かい合う自分はあまりにもかぼそく小さな存在であった。すると、この自分はどこから来、どこへ行くのか、またこの自分は一体どういう存在なのかを自分に問いかけることが訳もなく湧いてくるのだった。
しかし、生じっかそういう高校気質に目覚めたのと文学青年になったため、中学校まで優等生であった私はたちまち劣等生になった。
そのため私は丸きり見当もつかない試験に詩や短歌を書いて合格点に近い点を貰うようになった。物理の松崎先生や数学の坂井先生である。またドイツ語の望月市恵先生のお宅には親しく出入りしてトーマス・マンやリルケのお話を聞かせて頂いた。旧制高校の良さはこういう先生がおられたことが大だったと思われる。
現在も旧松本高校の跡に、「旧制高校記念館」があり、その中に私の昔の物理の答案も展示されている。＊
（日経新聞 私の履歴書 北杜夫 2006年より引用）
辻邦生と北杜夫は、旧制高校で知り合ってから終生の友となった。辻の方が入ったときは先輩だったが、何度か留年しているうちに北の方が先に卒業した。
二人の文章を読んでいると、旧制松本高校の自然豊かな環境や人を育てようとする学校の雰囲気が伝わってくる。
信州は、北海道の次に好きな所だ。その四季の移ろいが爽やかな気候や雪を頂く美しい山々のある風景が好きなのだろう。
2年前に女房が友人と春の安曇野を訪れた時の写真があった。残雪の北アルプスを背景に、菜の花畑が広がっている。絵になる風景である。
朝の連続テレビ小説を見ていて、その写真をスケッチしたり、古いエッセーを思い出したりして一文を認めた。
(2011-5-18記)
