人が死ぬということは、自分にとってどういう意味があるのだろうか。
ここ数日、頭の痛みが続いている。夜に眠り、朝には治っているだろうと思いながら床につくのに、翌朝も鈍い痛みが残っている。そんな状態がしばらく続くと、ふと「このまま死ぬのかもしれない」という考えが頭をよぎった。それを機に、改めて「死」について考えてみた。
ただしそれは、自分の死ではない。周りの人間の死についてである。
自分の死については、死んだ後に意識がないなら当然自分では確認できない。逆に意識があって確認できるなら、それはもはや「死んでいない」ということになる。どちらに転んでも、自分の死は自分にとって経験されえない。だとすれば「死」とは、つねに他人に起きる出来事として、つまり、それをどう受け取るかという問題としてしか意味を持たない。
ここ数年で、父と弟を肺がんで続けて失った。正直なところ、悲嘆にくれるという感じにはならなかった。父は80代後半まで十分長く生きたし、弟は50代だったが、傍から見れば実に自分の思うように生きてきた人間だったから、二人の死は悲嘆の対象ではなく、どちらかと言えば祝福の対象であった。
もちろん、「もう会って話せないのだ」という、言葉にしにくい寂しさはあった。弟とは最期の時間をともに過ごし、かなりのことを話せた。父に対しては、もっと腹を割って話しておけばよかったという思いも残っている。だがそれは、死そのものへの悲しみではなく、この先もう会えないという寂しさだ。
そう気づいたとき、その寂しさは死に固有のものではないと分かった。小学校の同級生でも、ふと疎遠になった昔の知人でも、もう二度と会わないかもしれない人間は大勢いる。相手が生きているかどうかは、別れの寂しさとは関係がない。
死んだ人間はもっと生きたかったのではないか、苦しかったのではないか……そう推し量って共感することはできる。しかし実際のところはわからない。
やはり、人が死ぬことの自分にとっての意味は、「永遠の別れ」という寂しさに他ならない。

\ この記事をシェアする /

コメントはまだありません。
コメントを書く