■小野篁
京都市東山区の六道珍皇寺は、かつての葬地であった鳥辺野の端にあって、現世と冥界の境界とされ、現在でもその門前は、仏教で亡者の通う道を意味する「六道の辻」と呼ばれている。また、境内にある井戸は冥界に通じており、その昔、小野篁(おののたかむら)は、ここを通って冥界との間を行き来した!との伝承がある…。
この小野篁なる人物、百人一首に精通されてる方はよくご存知かも知れないですが、”わたの原 八十島かけて漕ぎ出でぬと 人にはつげよ あまの釣り船”の作者として知られている。小野篁は平安時代の学者で漢詩人だ!能筆で知られる小野道風と、美女の代名詞となった小野小町の祖父とされる人物で、後に「令義解」を記すなど、学者・官僚としての能力に長けた人だったようなんだけど…。
子供の頃は、とにかく勉強嫌い!ワンパクなほうで、弓や馬に熱中していた。あまりに学問をないがしろにするため、嵯峨天皇じきじきのお叱りを受けて発奮し、それからめきめきと頭角をあらわしたという…。自尊心が強く、反骨精神のかたまりのような篁は、「野宰相」「野狂」のあだ名があった。

篁の詩の才能を試そうとした嵯峨天皇が、白楽天の詩集「白氏文集」の中から一節を抜き出し、少しだけ字句を変えて篁に示した。すると篁は「よい詩でございますが、こう変えれば、もっとよくなりましょう」と言って、天皇が変えたところを即座に元の字句に直して見せたという…。
当時「白氏文集」は、天皇家の文庫に秘蔵されていて、篁といえどもみることは出来ないものだったので、天皇は大いに驚いた!らしい…。
それほどの切れ者だった小野篁にはもう一つの顔があったようで、冥界では閻魔王宮第二官だったそうだ!「今昔物語集」第二〇には次のような説話がのっている。”西三条の大臣”と呼ばれた実力者・藤原良相(ふじわらのよしすけ)が、重病を患った時の事…ついに亡くなり、閻魔王宮に連れていかれ、裁判となった!閻魔大王の前に引き出され、居並ぶ閻魔大王の臣下たちの中に、何故か小野篁が混じっている…。不思議に思っていると、篁は閻魔大王に向かい「この日本の大臣は心正しく、人にも親切です。私に免じて罪を許していただきたい…」と言い、閻魔大王も「そなたがそこまで言うなら許そう」と同意をし、連れ戻され、その途端に生き返った!後になって、良相が篁にその時の事をそっと尋ねると、「以前の親切がありがたく、そのお礼です。どうか人には言わないで下さい」との事だった。しかし、いつの間にか人々の知るところとなってしまったようで…。
実は”以前の親切”というのは、承和五年(838年)のある事件をさす。当時、篁は遣唐副使であり、船出したんだけど、暴風雨にあい難破。翌年再び出帆してまた難破。遣唐正使の藤原常嗣は、3年目にも無理やり渡航しようとしたため、藤原常嗣と大ゲンカし、病気と偽って乗船せず、「西道謡」という詩を書いてその無謀さを非難した!この事が嵯峨天皇の怒りをかって隠岐に流される。”わたの原…”の歌はこの時のものらしい…。

史実では、小野篁は従三位、参議にまで登りつめ、仁寿二年(852年)、51歳で没した。墓は京都市北区紫野西御所田町にあり、あの紫式部の墓と並んでいる。とんでもない能力者だったのは間違いない!個人的に何故か惹かれる人物なんですわ…冥界との行き来をしていた小野篁…。ダンテは自らが見て来た天国・煉獄・地獄の世界を「神曲」として世に残したんだけど、篁もダンテ以上の経験をしたのは間違いないだろう…ただ、残念なのは、篁自身が自分の体験を書に残さなかった事に思えてなりません。