■呪禁道
奈良や平安の時代は、国の機関として、占いをする機関があって、以前書いたように、陰陽寮があって陰陽師が活躍していた…。当時の日本は、制度や学問、文化等、あらゆる事を唐から学んでおり、律令制度も唐の影響を色濃く残す制度で、陰陽寮もその一つであったのだけど、唐から百済を経て入って来たものには、「典薬寮」というのもあった。書いて字のごとく、医療を扱う役所で、典薬寮とは、国のというか、今で言えば宮内庁お抱えの病院と言えば解りやすいですかね?
陰陽師と同じように、今なら国家公務員の状態で、典薬寮は、薬草を栽培する薬園を運営し、茶や枸杞(くこ)を栽培していた。典薬寮で働いていたのは大陸由来の医療技術を伝える者。そこには医師、鍼師、按摩師(今で言うマッサージ師)、そして呪禁博士が一人と呪禁師が10人所属していたようなの…。
呪禁師(じゅごんと読みます)は、持禁の法、解忤の法という2つの術を用いたそうだ…。かつて中国では鬼や魔物が体内に入る事で病気になると考えられていた。その害からあらかじめ身を守るための術が、持禁の法である。呪禁師が杖や刀を持ち、気の動きを止める呪文を唱える。すると、人の体内に入って病気を起こす鬼や魔物、猛獣、毒虫等の害は退散して行く…と同時に湯、火、刀刃等によって傷つけられない強靭な体になる!というもの…。

一見とても有効に見える呪禁道なんだけど、日本に根付く事はなかった…。一つは呪禁師に陰陽師の安倍晴明のようなスーパースターがいなかった点と、元々典薬寮に呪禁師を置いたのは唐の制度の真似をしただけで、当時の貴族たちが重病に陥った時に、本等に頼りにしていたのは僧による祈祷だったり、神社への供え物だった…んなもんで、呪禁道の形骸化は進んで行ってしまった。

そして密教の台頭は陰陽道の勃興を誘発し、ますます呪禁道の出る幕はなくなった。陰陽道と呪禁道はいづれも中国古来の民間信仰から生まれた呪術。そのため呪禁道は陰陽道にすぐに取り入れられ、十世紀を迎える頃には典薬寮に呪禁師という役職が消える…。その後、呪禁道は陰陽道の呪術的な部分の発展をうながす事になるのだけど、現代なら確実に呪禁道のほうが、残りそうですよね?