伊達市地域生活情報マガジン『むしゃなび』へ ブログ★むしゃなび トップへ [今日:4] [昨日:5] [5105] rss feed
[2009.01.15]
■即身仏 5 待定法師
 即身仏さまの事をこのブログで紹介するようになって、既に5回目…さすがに、飽きて来た方もいるかも知れないけど、私個人的に即身仏に何故か惹かれるものがあって、また違った即身仏さまを紹介しようと思う。まして、今回の即身仏は、即身仏と言える代物ではないかも知れないけど、私的には”立派に即身仏になった方”と認識しているだけなので、興味のある方や私みたいなマニアックな方は是非読んで欲しい…。 


 今回紹介する禅峯待定法師…この方は山形県東置賜郡高畠町にある大聖寺というお寺に祀られている…。この大聖寺のご本尊は文殊菩薩で、日本三大文殊に数えられるくらい有名なお寺なのね。だから!受験シーズンにもなると、受験生やらその家族・親戚・縁者等が”受験合格”の祈願を掛けにたくさんの人たちで賑わっている…。また、私が卯年生まれで、文殊菩薩さまが守り本尊さんなので、最初は待定法師の事を知らずに、大聖寺にお札もらいに行っていた。 
 
 この待定法師、即身仏と言えるかどうか?という疑問が…って前段で書いたのには理由があって、残念な事に、そのお姿は残されていない!今は鐘堂に木像がひっそり残されているだけだから、即身仏とは言えないのかも知れない。だから、即身仏を紹介する本やインターネット等でも即身仏 待定法師としているものはあまり見た事はないのだけど、記述が残っている以上、私は即身仏になった方として紹介したい。 
 
 今までも書いたように、即身仏になるためには、とんでもない苦行難行を経て、入定するのは変わらないのだけど、この待定法師!ゲスな言葉で申し訳ないのだけど、”かなりヤバイ”のですよ…。何がヤバイのか?その入定までの過程が信じられないくらいの修行と布施をした方で…。 
 
 大聖寺には「待定法師忍行念佛伝」という伝記が残されている。この書物の著者は江岸月泉という人らしいのだけど、この江岸月泉は、待定法師が入定した享保16(1731)年7月17日から15日目に現地を訪れ、地下の入定窟から発する法師の念仏をしっかり聞いたと記してある。この記録を元に法師の生き様を追っていくと…。 
 
 待定法師は貞享2(1685)年、出羽国村山郡蔵増村(現・天童市蔵増)に生を受けた。俗姓は東海林と言うようなんだけど、弱冠20才の時、父が亡くなり家名を継ぐ…とあるけど、家業は記されていない。待定は母と妻と子供2人の生活をしていたらしいのですが、当時、奥羽で名高かった無能和尚が村山郡谷地の誓願寺に来て、法然上人の「撰択 本願念佛集」を材料に法話をしたのだけど、待定はその法話にえらく感動して、直ちに出家を願い出た。但し、無能和尚は、待定の出家を妻子があるからという理由で許さず、その代わり日課として念仏唱名三万遍する事を誓約させたらしい…。こうして待定は在家ながら、一向専修の行者となった。 
 
 とにかく、無能和尚との出会いと浄土宗との出会いが強烈なインパクトだったようで、急速に念仏三昧に入ってしまうのだけど、ある日遠方の親戚筋を訪ねた時、時雨に合い、雨宿りをしていると、横に佇む石の地蔵菩薩を見て感銘し誓願を立てたらしい…。「地蔵さまも、元々凡夫、自分もこの地蔵さまのように、衆生を救うのだ!」と…。即身仏は空海や弥勒信仰の影響があってか、真言宗の専売特許と思われがちなんだけど、浄土宗でも京都には弾誓上人という即身仏が現存しているし、この弾誓上人の弟子筋が無能和尚であり、その弟子が待定なので、ある意味、待定も即身仏になる土台はあったんでしょうね。それからの待定は…。 
 
 まず、出羽三山で穀断ちの修行をしながら称名念仏十万遍を日課として煩悩断絶に精進。すると夢告に「本国に帰り、得度剃髪して諸人を救済せよ!」と告知を受け帰国。大聖寺は通称亀岡文殊というのだけど、その滝で断食念仏の修行をしながら師である無能和尚に習って自分の男根を切除したようだ。時に享保5(1720)年の事で、その年の秋に出羽・宝勝寺の瑞峯和尚を師として剃髪、禅峯待定と称した。ここからの修行が尋常でなく、かなりヤバイ! 
 
 待定法師は信心増進のためといって、毎月23夜、26夜の月待ちをしたようなんだけど、日没の頃より屋根の棟に上がり、足駄を履き、茶碗に水を一杯に入れ、これを三指で支えて、高声で念仏しながら月の出るまで身体を少しも動かさない修行をしたり、仏海上人のように真冬の川に裸体で入り、念仏修行をしたり、身体が入れるほどの板囲いを作って、蓋をし、その中に炒大豆1500粒と一碗の浄水を入れ、一昼夜に念仏十五万遍、一万遍ごとに炒大豆一粒を水にしめして食べる。だから、一昼夜で十五粒。百日間で1500粒となり、それを実行した。人々は”希代の苦行だ。恐らく途中で死ぬだろう…”と言って涙したり、二百目ローソクを三寸(約9センチ)ほどに切ったものを法師の頭と両掌において火を点じ、このローソクが燃えている間、法師は雄朗たる声で念仏し、人々もそれに追従した…等、とんでもない荒行苦行を実行して行った。 
 
 享保十(1725)年、出家して6年目、41歳の時、火急に捨身供養をすると言い出した。ここからが、更にすごいというか”ヤバイ”大聖寺に「鐘楼を建立せよ」という霊告を受け、五年に渡って各地を募金、その間米沢で、左手の親指を石上で叩き潰しもらって、燃やした。後は油紙を巻いて左手五指全てをこの地の白山権現に奉納供養。ついでに仙台では右手小指を燃やして供養、更に米沢の笹野観音に27日参籠したところ、霊夢で「入定の時来る。亥の7月17日午の刻」と告げられ、同地で右手の親指と人差指を燃やして供養、右手に残る二指も同年、仙台の斗倉の観音の宝前で燃やして供養しようとしたが、いつもと違って激痛がしたので、一指だけ残し、今の福島県の漁村で、魚供養のため残した指も燃やしてしまった…。痛すぎでしょう?ヤバイくらいですよね?でも、そんな指供養の効果は絶大だったらしく、あっさりお金が集まって鐘楼を無事完成させてしまう。 
 
 いよいよ入定の前、「自分は発心以来、種々の節身修行をしたが、特に心を留むる所が87ヶ所あるので、ここには自分の肉身を切って届ける事にする」と言い出し、入定の前日16日に待定法師は観音堂で自ら利刀で両目を抉り出し、舌、耳、顔面、唇、腕、脚などから87片の肉塊を切り取り、それを机上に並べた…。出血はなく、白乳が少々出たらしいが、既に舌もなく、頬の肉もないのに安然として人と対話をし、参詣人たちに高声で十念を授けたという。この噂を聞いた江岸月泉が入定15日目に参拝したところ、はっきりと待定法師の十念を聞いたと記しているのさ…。 
 
 そして、入定して90日は、同地を訪れた参詣人たちに十念を授けていたが、それが最後になったようで…この状態で90日!かなりヤバイでしょう?87個の肉片は、私が思うに四国巡礼の88ヶ所に習ったのではないか?と考える。88ヶ所目はたぶん待定法師自らが、入定した大聖寺なのではないだろうか…?実は、かなり昔、TVでも取り上げられ、発掘調査が行なわれたのだが、残念な事に、そのお姿は出て来なかった…。 
 
 今は木像しかないのだが、私は立派にとんでもないヤバイ即身仏として認めている。賛否両論はあると思うけど…まだ発掘されてない即身仏は今でもたくさんあるんでしょうね。ただ、あったとしても、たぶん難しいというか、残っていないのも現状でしょう。 
 
 随分長い文章になってしまったけど、これでも半分しか伝えられなかった気がします…。ここまで付き合ってくれた方、感謝します。ありがとうございます。その読んでくれた方がいる事自体が待定法師の供養になると信じています。また、機会を見つけて、他の即身仏さまも紹介致します。 
▼トラックバック(0)
このエントリへのトラックバックURL:
現在トラックバックの受信を停止中です
▼コメント(0)

▼コメントを書く...
*必須入力です
 「コメント」欄は日本語で記入してください。
 英字数字のみだと、コメントと見なさず投稿できません。
※コメントは承認後に掲載されます。
*お名前:
メール:
URL:
*コメント:
PROFILE
タリズマン・マスター
タリズマン・マスター
1995年から、この伊達市に、占いスペースを開き、運命アドバイザーとして占いをおこなっています。  
札幌、苫小牧など、遠方よりお越しになる方も、多く占わせていただいています。  
 
占いに使うアイテムは、タロットカード、占星術、など、多岐にわたりますが、アイテムをガイドとして使いながら、霊感によって、その人の本質を霊視します。  
この仕事についたのは、運命だと思っています。 
ブログ検索