■稀と言われても・・・
この3月で70歳になってしまった。 私の父は56歳でアチラへ行ってしまったので、オヤジの年より14年も長生きしてしまった。
70歳は「古希」というそうだ。
それは「人生七十年 古来稀なり」という杜甫の「曲江」の中の詩から出た言葉だそうだ。
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いまじゃ、70歳なんてその辺りにゴロゴロいるし、見た目が若いので誰が古希だか分からない。 私の同級生もみんな古希を過ぎた。
まだ働いている男もいるし、アチラへ行ってしまった男もいるし、いまだに悟らない男もいる。
昔は「美しく年をとる」ということが言われたような気がするが、今じゃそんな言葉は聞かなくなった。
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元気過ぎる古希オヤジ、オババが増えて、世の中の落ち着きが無くなったように思う。 年寄りは我儘で自分勝手な人が多く、その上に頑固になる。
早死にすると、「惜しまれる」。
長生きすると、「うとまれる」。
100歳を超えると「祝われる」。
引退して100歳になるまでは、ジジイは「うとまれる」だけである。
この期間が長く、年金問題、健康保険問題など、現役の人達に迷惑を掛け続ける。
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還暦の時は家族が祝ってくれそうになったが断った。
あの頃から見れば、確実に体力・知力・聴力・視力は落ちて来た。
古希の祝いは、引っ越し1周年記念と一緒だった。
年寄りの良いところを一生懸命になって探してみた。
その結果は、「なにもない」。 なんだか悲観的になって来た。
なんとか元気なジジイ達が、世の中のお役に立てることはないのだろうか?
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(おまけの話)
私はいつでも思っているが、「十分に人生を生きて来た。いつお迎えが来ても悔いは無い」。 これは本当に、いま感じていることである。
ところが、このマンションでお付き合いをしている男性は、喜寿を過ぎた人が多い。彼らと話していると、「90歳までは生きたい」と言っている。
「70歳の時は80歳まで生きたいと思っていたが、喜寿を過ぎたら欲が出て、90歳まで生きたくなった」と言う。
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彼らが90歳に近付いた頃には、きっと「100歳までは生きたい」と言うに違いない。 100歳まで生きたら、妻も子供も友達もいないだろうと思う。
「惜しまれて去るということも大事である」と、私は考えているが、惜しまれるかどうかは、その時にならないと分からないのである。
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