■イザベラ・バードの紀行 有珠は美と平和の夢の国

イザベラ・バード(Isabella Lucy Bird、1831年10月15日~1904年10月7日)は、イギリスの女性旅行家、紀行作家で明治時代の東北地方や北海道、関西などを旅行し、その旅行記“Unbeaten Tracks in Japan”
(邦題「日本奥地紀行」「バード日本紀行」)を著した。
イザベラ・バードはイギリス・ヨークシャーで牧師の長女として生まれる。幼少時代には病弱で、北米まで転地療法したことや各地に旅行したことがきっかけとなり、長じて旅に憧れるようになる。
1878年(明治11年)5月にバードが横浜に着き、第一信を妹に宛てて書いた頃の日本の政情は極めて不安定であった。その1週間前の5月14日に大久保利通が暗殺されている。前年の1877年(明治10年)には、西南戦争が終結して西郷隆盛が鹿児島城山で自決している。明治維新がなったが多くの施策を実行する中で新旧勢力のぶつかり合いが様々に起こった時代であった。
そんな中バードは、東京で“伊藤”という18歳の青年を雇い、以後彼と二人で東北、北海道の旅に出かける。旅は当時のはやりであった人力車や乗馬によるもので、時に悪路では徒歩によることもあった。当時の日本の馬は、労役に酷使されて背がただれていたり、気性が荒く乗るのに苦労が耐えなかったようだ。
当時の日本は、維新がなって懸命に開化政策を進めていたが、一歩田舎に入るとまだ前時代の延長のような生活が続いている。ヴィクトリア朝華やかし頃のイギリスから来たバードから見ると、何とも未開の地という印象はぬぐいきれなかった。
「街頭には、小柄で、醜くしなびて、がにまたで、猫背で、胸は凹み、貧相だが優しそうな連中がいた・・・」横浜に上陸した時の第一印象を書いている。その通りだったのかもしれないが、何とも今から思うと、「ここまで書くか!」とも感じた。
それでも田舎の風俗で優れた点や自然の景観の優れたこと、また北海道では特にアイヌ人について優しく見つめている描写が多い。明治初年の北海道のアイヌ人について記録された書物は少ないので、バードのこの紀行はアイヌ人の生活や風俗を知るのに優れた資料とも云われている。
苫小牧の辺りを歩いた時に、樽前山についての記述がある。
* 私たちは四人のアイヌ婦人たちに追いついた。彼女たちは若くてきれいであったが、裸足で、しっかりと大股で歩いていた。男たちとだいぶ笑い声を立てていたが、やがて車をとって七人全部が車をひき、きゃあきゃあ笑いながら半マイルほど全速力で走った。間もなく小さな茶屋まで来ると、アイヌ人たちは私に藁の包みを示し、自分たちの開いた口を指さした。そこで私には、彼らが一休みして食事をしたいのだということが分かった。やがて私たちは、馬に乗った四人の日本人に出会ったが、アイヌ婦人たちがかなりの距離を彼らと競走したので、この駆け足の結果、わたしは苫小牧に正午に着くことができた。ここは広くて寂しいところで、家屋の屋根には芝土が盛ってあり、雑草がぼうぼうと生えていた。この近くに樽前火山がある。静かそうな灰色の円錐山で、その麓は何万本という枯木におおわれている。長年の間あまり物静かで灰色に見えたので、人々はこの火山は永久に休んだものと考えていたが、最近のある蒸し暑い日に、火山はその頂を爆発し、この地方一帯が何マイルにもわたって火山岩や火山灰におおわれ、山腹の森林地帯は焼きつくされた。苫小牧の土の屋根にもさらに火山灰が降り積もり、五十マイルも遠く離れた襟裳岬にまで細かい火山灰が降った。*
樽前山は、バードが歩いた4年前の1874年に火山灰降下や火砕流を伴う噴火を起こしている。噴火後4年という歳月では、山麓はまだまだ灰色の世界だったことが伺える。
室蘭近くの幌別辺りを歩いている時のシーンである。
* 今朝早く私は、二人の親切で愉快なアイヌ人に人力車を引かせて出発した。道路は雨のためにだいぶ傷んでいたので、私はしばしば降りなければならなかった。私がふたたび車に乗るたびに、彼らは私の後ろに空気枕を当て、毛布で私を包んでくれた。激しく流れる川のところに来ると、一人は背を踏み台にして私を馬に乗せてくれて、私が摑まれるように輪縄をくれた。もう一人は私の腕をおさえて身体がぐらつかないようにしてくれた。彼らはどんな丘でも、私に歩いて登ったり下ったりさせようとはしなかった。言葉は国によって異なり、人々の意思疎通は難しいが、有難いことに親切心と礼儀正しさは世界中どこでも通ずる言葉である!未開人の顔に浮かぶ優しい微笑は、自分の国の人の微笑と同じようによく分かるのである。*
ここでは、アイヌの人のバードに対する優しい心遣いとそれを充分に感じている彼女の正直な気持ちが現れている。「親切心と礼儀正しさは世界中どこでも通ずる言葉である!」とはいいフレーズである。
室蘭を経って、稀府、紋別(伊達)、有珠と旅した9月6日の記述である。
* 平穏以上の日であった。天国の朝かと思う日であった。紺色の空はあくまでも雲一つなく、青い海はダイヤモンドのように輝き、美しい小さな湾の黄金色の砂浜は多くの輝く微笑を浮かべているかのようにきらきらしていた。四十マイル離れた向こう側には、噴火湾の南西端を示す駒ケ岳の桃色の頂上が柔らかい青霞の中に聳え立っていた。すがすがしいそよ風が吹き、山は黄褐色に色づき、森は黄金色にきらめき、あちらこちらに
真っ赤な色が散っていて、深まりゆく秋の

幕を開けたように、美しく日は閉じた。
私は刻一刻と過ぎてゆく時間をどんなに
引き止めたいと思ったことだろう。私は
自然の美しさを満喫した。私はかなり多数
の室蘭アイヌ人を訪れ、檻に入っている
彼らのよく成長した熊を見た。
そして正午にふりきるようにしてやっと
別れて、険しい丘を越え、樫の叢林を
通り、海辺に近い琥珀色の砂浜を走っている道を進んだ。いくつかの小さな川を渡り、淋しい稀府のアイヌ村を過ぎた。左手はいつも海原で、右手には森林でおおわれた山脈があり、前面には有珠岳火山が聳えて行く手を遮っているように見える。この火山は堂々たる山で、青空に切り立って聳えているが、三〇〇〇フィート近く高さがあるのではないかと思う。(中略)*
朝陽に輝く駒ケ岳や青くきらきらする噴火湾の描写が美しい。9月の初旬のこの頃、山肌はすでに紅葉して来ているようだ。
* この有珠岳を見て私はまったくびっくりし、しばらくの間はこの地方の地理について私が頭の中で注意深く組み立てていた概念は混乱してしまった。この湾にある火山は森の近くの駒ケ岳だけであると私は先に聞いていたし、そこまではまだ八〇マイル離れていると信じていたから、二マイルの眼の前に、このぎざぎざに割れて朱色の山頂をもつ壮大な火山があろうとは知らなかった。それはいわゆる火山というものよりも、はるかに気高い姿をしていた。前面には連山を張り出していて、山腹は深く切り刻まれて峡谷深淵となり、真昼の太陽も光がとどかぬ紫色の暗闇となっていた。一つの峰は深い噴火口から黒い煙を噴出し、別の峰は噴水口の壁のいろいろな割れ目から蒸気や白い煙を出していた。朱色の峰、噴煙、水蒸気――これらすべてが明るい青空に立っている。空気が澄みきっていたので、私は火山の様子をすべてはっきりと眺めることができた。特に私がこの火山前方の連山よりも高い地点に到達したときに、よく観察できた。私がこの火山の地理的位置を正確に摑むのには二日もかからなかったが、駒ケ岳でないことだけはすぐに分かった。この山の火山活動は活発である。私は昨夜三〇マイルも離れたところで、この火山から火焔の上がるのを見た。アイヌ人はこれを「神」であると言ったが、その名前を知らなかった。その火山の麓で暮している日本人も知らなかった。その火山からかなり離れた内陸部には、大きな円屋根のような形をした後方羊蹄山(シリベツアン)が聳えている。この山の全景は雄大である。*
バードは有珠山についての事前の情報がなかったようで、突然に眼の前に現れたこの火山に驚きもし、その美しさを褒めてもいる。有珠山は1853年(嘉永6年)に山頂から火砕流を伴う大噴火をしており、この時に大有珠の溶岩ドームが出現している。バードが訪れたこの年は、それから25年が経過しているが、まだ溶岩の火焔や、噴煙、水蒸気が活発に上がっている様が感じられる。
この後、バード一行は長流川を泳いで渡り、有珠地区に入る。
* 有珠は美と平和の夢の国である。この沿岸では満潮と干潮の高低の差があまりないから、もしも海から一フィートばかり高いところの岩に美しいヒバマタ属の海藻が金色に染まっていなかったならば、この湖のように見える幻想が完璧なものになったであろう。私が夜を過ごした入り江では、樹木や蔓草は水面に頭を垂れ、その緑色の濃い影を映していた。それは湾の他の部分が夕日を浴びて金色や桃色に輝くのと鋭い対照をなしていた。丸木舟は、高くするために船縁に板を組み合わせてあったが、金色に輝く小さな浜辺に引き上げてあった。深い蔭になっている入江には、深く刻んで作られた古ぼけた帆掛舟が木に繋がれていて、幽霊船が浮かんでいるようであった。森の繁っている丘、岩肌を見せている丘にはアイヌの小屋が見え、有珠岳の朱色の火山口は落日の光を浴びてさらに赤色に染まっていた。数人のアイヌは網を修理しており、さらに食用の海藻(昆布)を干すために広げているものもいた。一隻の丸木舟は黄金の鏡のような入江の水面を音もなく辷っていた。いく人かのアイヌ人が海岸をぶらぶら歩いていたが、その温和な眼と憂いを湛えた顔、もの静かな動作は、静かな夕暮れの景色によく似合っていた。寺から響いてくる鐘の音のこの世のものとも思えぬ美しさ――景色はこれだけであったが、それでも私が日本で見た中で最も美しい絵のような景色であった。*
有珠湾の辺りで、一人夕景に佇むバードの感慨で、紀行文の中でも最も美しい描写であろう。確かに今でも、有珠湾や虻田の道の駅辺りから見る噴火湾に夕陽が沈む様子は、絵のように美しい。渡島半島の山々のシルエットや海に映える金色の光りが美しい。
話は逸れるが、昨年届いた浄土宗のカレンダーの9月の頁に「夕陽の彼方に 極楽浄土」 Believe in the Pure Land that lies far beyond the evening sun.(英訳が付記)とあった。
バードが有珠湾のほとりに佇み、暮れ行く夕景の中で、アイヌの人々の平穏な営みや有珠善光寺から聞えてくる鐘の音を聞きながら、「いまこの時が、Pure Landだ」と感じたのかもしれない。

◆資料
・「日本奥地紀行」イザベラ・バード著 高梨健吉訳
平凡社ライブラリー
*・・・*は本からの引用部分
・イザベラ・バードの肖像画 Wikipediaからコピー
(2011-10-20記)