農家のトラックを借りて、運転手をしていたことがある。もう30年くらい前。10年やっていたサラリーマンを辞めて、北海道に移住した頃の話だ。
独立して、輸入ビジネスは2年ほど順調に伸びていた。ところが3年目、急激な円安に加えて荷余りで相場が急落した。そこへ競合の大手商社が、こぞってガンガン損切りをしてきた。市場は一気に投げ売り、爆下げ状態。そりゃ彼らにとっては、惜しくもない会社の金だ。だが、吹けば飛ぶような俺の会社にとっては致命的だった。
結局、俺は損切りの判断が遅れた。半分は在庫を抱えたまま、長く苦しむことになる。
耐えるしかなかった。何が間違っていたのだろう。それなりに一所懸命やってきたはずなのに、もがけばもがくほど沈んでいく。このとき、底へ沈み込み、浮き上がれない苦しさを初めて味わった。
いよいよどうにもならなくなって、アメリカの買付先には頭を下げ、取引を中断してもらった。支払いはできるだけ待ってもらいながら、借金だけが増えていった。何をやってもダメで、しまいには嫌気がさして会社にも行かなくなった。社員にも頭を下げて辞めてもらい、俺はひとりになった。
会社はいったん整理して、なんとか生き残れた。だが、再開する気力はなかった。しばらくは宗教や哲学の本を読んで、公園で一日を過ごした。ずっと人生について考えていた。
「何がいけなかったのだろう」と。
あの頃が、今までの人生で一番のどん底だったと思う。カミさんは、多分もう諦めていたのか、こんな状態の俺に何も言わなかった。でも、三人の子どもを抱えていくには働かなきゃいけない。彼女は昼も働き、夜はスナックのバイトまでして家計を支えた。俺は情けなかった。
そんな瀕死の俺に、札幌にいる師匠のひとりが声をかけてくれた。北海道に来てから付き合いをさせてもらって、世話役みたいに寄り添ってくれる、ひと回り上の先輩だ。俺は彼に憧れてサラリーマンを辞めたようなところもある。
「農家さんのトラック使って、荷物の運搬、手伝わないか?」
俺はその仕事を受けた。
(つづく)

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