40年くらい前まで
僕には祖父、つまり「おじいちゃん」が二人いた。
二人とも既に他界して何年も経つのだが、
最近自分が当時のおじいちゃんたちの歳になり、
おじいちゃんたちを思い出す機会が増えたので
この4月に生まれてきた孫のためにも
書き留めておくことにした。
母方である海老塚のおじいちゃんは
生麦の商家の血統をひく。
僕が子ども時代は藤沢駅の近くで旅館屋をやっていた。
僕をとても可愛がってくれて、
いつも行くたびにお小遣いを沢山くれたので
藤沢駅のデパートで好きなおもちゃを
買いに行ったものだ。
そして僕のためにスクーターで
わざわざ横浜までチャーシューを買いに行ってくれたし、
うなぎもよくご馳走してくれた。
おじいちゃんは結構なお金持ちなのだと思っていた。
それが1970年代の頃。
何しろ無条件で僕を可愛がってくれた
このおじいちゃんが大好きだった。
中学生の頃は千葉に住んでいたが、
その頃に初めて家出をしたときには
おじいちゃんの営むこの藤沢の旅館まで来て
匿ってもらったこともある。
おじいちゃんに帰るように言われて家を飛び出し、
泣く泣く江ノ電の線路の上を
夜中に一人で歩いたあの空気感は
今でも覚えている。
このおじいちゃんには
小さい頃からよく「生麦」のお寺に連れていかれた。
そして「おじいちゃんが死んだらここにはいるから、
そうしたらお前がここの墓の面倒をみるんだぞ」と
先祖代々ずらっと並んでいる墓を参りながら
先祖の話を聞いたものだ。
おじいちゃんには母を含む3人の娘がいた。
男子がいなかったので、この海老塚家は
養子を迎えない限り絶えてしまう。
おじいちゃんはそれがとても気がかりだったのだと思うし、
だから僕に墓守を託したかったのだろう。
おじいちゃんが死んでお墓にはいり、
社会人となった僕はそのうちに北海道に来てしまっていたので
横浜の実家に行くときは、できるだけお墓参りはしたものの、
年に数回だった。
そうして久しぶりに墓参りをしたある時、
並んでいるお墓の年号を調べてみたくなった。
古くは「延宝」とあって1600年代のものだった。
その次にはあの日本史で習ったことがある
「享保の改革」の「享保」時代の墓だ。
そう、8代目将軍、徳川吉宗の時代。
1700年代の頃だ。
1800年代になると、いくつかのお墓は傘がついて
立派になっている。
商家ながらも、その時は帯刀を許されたらしく、
おじいちゃんはいつもそのことを自慢していたのを思い出した。
その頃から自分の先祖を辿るのに興味を持った。
一体自分はどこから来たのだろうか。
インターネットで調べると家系図を作る調査サービスもあり、
10万ほど出せばちょっとした調査もしれてくれるようだったが、
自分でできるだけ探してみようと思った。
そこでネットでいろいろと母方のこの家系を調べたら、
生麦村の郷土研究会が編纂した本が古本として売られていたので
これを手に入れた。

\ この記事をシェアする /
コメントはまだありません。
コメントを書く