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江戸三十三観音霊場巡り(3)

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ブログ閉鎖中の話題(2015年9月07日)

髪の毛が伸びて暑苦しいので、いつもの新宿の床屋へ行った。
床屋は終ったが昼飯にも帰るにも時間が早過ぎるので、時間つぶしに江戸三十三観音霊場巡りをすることにした。今回の霊場巡りは「シルバーパスを使う。使えないところは歩く」と自分で決めているので、今回は新宿の近くの霊場を巡ることにした。

四谷は坂が多い。この左側が「真成院」。


新宿駅西口から都バスに乗って、四谷三丁目で下車する。バスを降りてビックリした。
とてつもなく暑いのである。しかも四谷という地名にあるように、この町は坂が多い。
汗びっしょりになって、やっと見付けた「真成院」は坂の途中にあり、立派な鉄筋コンクリート作りで、本堂は石の階段を更に5階まで歩いて登れなければならない。

お寺の蓮が少しだけ、暑さを和らげてくれた。


5階で参拝を済ませ、持参した水筒から冷たい水を飲む。
次は早稲田の近くの「放生寺」で、四谷三丁目からバスで馬場下町で下車である。バスの時間まで30分もあるので、コンビニに入り「小豆アイス」を買って食べる。
それでも喉の渇きが治まらず、ミネラルウォーターを買い水筒に入れて残りを飲む。

「真成院」の本堂。(第十八番寺)


「放生寺」に来てみて、「ここは来たことがある」と思った。
亡くなった母に頼まれて、「一陽来復」のお札をもらいに来たことがあった。お参りを済ませ、バス停に戻ると次のバスまで1時間待ちである。仕方ないのでコンビニでアイスコーヒーを買って、飲みながら地下鉄の駅まで歩く。

早稲田近くの「放生寺」。(第十五番寺)

【一陽来復】・・・・・http://kotowaza-allguide.com/i/ichiyouraifuku.html

地下鉄の駅までは上り坂の連続で、水を飲み飲み30分くらい歩いた。
やっと着いて駅の構内に入り、冷房の有り難さを感じた。
次の神楽坂の「安養寺」までは、地下鉄で1駅である。 電車が来たので飛び乗った。

放生寺の境内。

次の駅で下車をして、歩き出す。
神楽坂は何回も来ているので、ここは自分の家の庭みたいなものだ。
ところが駅から5分のはずなのに、15分も歩いても見慣れた場所に出ない。冷静になって考えたら、地下鉄で反対方向の電車に飛び乗って1駅来てしまったようだ。

神楽坂の「安養寺」。 (第十六番寺)


自分のバカさ加減に苛立つ。
よく70歳代のジジイが、高速道路で逆走したり、アクセルとブレーキを踏み間違えて駐車場から落下して死亡する事件が、私の今回のこのことで分かる気がした。

暑い中を夢遊病者のようにノロノロとまた15分もかけて駅まで戻り、今度は正しい方向の地下鉄に乗る。神楽坂では幻覚の中で安養寺のお参りをし、また地下鉄に乗って家に戻った。
この日は東京の最高気温が37.7度で、今年初めての異常な高温だったと家で知った。危うく熱中症でお迎えが来るところだった。

安養寺の案内板。「ボケの悩みを相談したかった」。


(おまけの話)
私の行きつけの床屋があるのは、新宿住友ビルの3階である。
その日に48階の「平和祈念展示資料館」でソ連に強制抑留された日本人兵士の資料の展示があったので、立ち寄ってみた。

【平和祈念展示資料館】・・・・http://www.heiwakinen.jp/

抑留者が作った「カルタ」が当時の事情を教えてくれる。


広い会場には壁に当時の状況を説明した案内板があり、日ソ中立条約を無視して日本に攻め込んだソ連の非道と、それに続く強制抑留の状況が良く分かった。
シベリアへ抑留された日本人の多くが栄養失調と酷寒に耐え切れずに、1年目の冬に亡くなったということを知った。

当時のソ連は食糧難だったが、中には良い人がいたようだ。


帰国を許された時も共産主義の洗脳教育を受けた上に、また持ち帰る荷物も制限されたので、当時の資料は非常に少ない。こんな過酷な状況の中では、私なら1年目の冬で死んでしまい、帰国はままならなかっただろうと思う。

歴史というものは毎年、積み重なるのだから、この先に生れて来る人達は「覚えることがドンドン増えて行って大変だなー」と変なことを考えた。

軍人と民間人の合計50万~104万人が抑留され、34万人が死亡したとみられる。


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伊達季節移住のススメ

心の伊達市民 第一号

北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。

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コメント(2件)

  • 床屋の話で思い出したが、その床屋はミニスカートを売りにしていたようですね!若気の至り?と言い訳しているが本心が見え見え!最近の若い子は脚も長くて細いが、10年前はどうだったのかな??その頃の若い子はまだいるのかな?

  • 中学の英語の先生が、シベリア抑留を余儀なくされ、しかし立派に生き残り帰国した人間でした。そのことをたった一回しか話しませんでしたが、今でも強く印象に残っています。

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