【三菱一号館美術館】★
都バスで「東京駅丸の内南口行き」に乗ると、東京国際フォーラムを少し過ぎたところの左側に「三菱一号館美術館」が見える。ここはいつでも美術館に入る人が順番待ちをしているので、すぐに分かる。交差点の角に立つ建物は煉瓦造りで、丸の内界隈でも目立つ建物だ。
資料によると『1894(明治27)年に竣工した「三菱一号館」は、現在に至るまで発展を続ける三菱グループの中核拠点であると同時に、わが国最初のオフィス街となる東京・丸の内に建った文字通り最初の近代建築作品である。・・・』

「三菱一号館美術館」
『地上3階地下1階、延床面積約6000平方メートル。尖塔式屋根を連ねたクイーン・アン・スタイルの外観。L字形の建物は堅牢な総赤煉瓦積で造られ、フロアの間を貫く間仕切り壁と帯鉄を施すことで、後の関東大震災にも耐え抜く耐震性・防火性を備えていた。・・・』
『設計に当たったイギリス人建築家ジョサイア・コンドルは、辰野金吾・曾禰達蔵ら錚々たる後進を育て上げた日本建築界の恩人である。そしてこの建物には、”官”に対する”民”への期待、真に国家百年の計を担うのは民間の活力にほかならないという・・・』
『コンドルの”理想”が具現していたと考えられる。その”理想”は、彼の弟子達によって脈々と継承され、後に周辺は「一丁倫敦」と通称されるわが国随一のオフィス街へと発展した。・・・』

「三菱一号館美術館」
『文明開化時代の和洋折衷・擬洋風といった19世紀欧米社会の模倣から、日本の都市が本格的な20世紀社会へと脱皮していく姿がそこにあった。だが、これら赤煉瓦のオフィスビル群は、第二次世界大戦後の高度成長期に次々と建て替えられ、姿を消す。・・・』
『「三菱一号館」も、周辺の地下工事による耐震性への懸念、急増するオフィス・スペース需要への対応といった事情から、1968(昭和43)年に惜しまれつつ解体された。折しも同年には日本初の超高層オフィスビル「霞が関ビル」が落成し、日本の都市建設が新たな局面を迎えようとしていた時代であった・・・』。
『それから40年の時が流れ、私たちは、再開発の槌音響く丸の内の地に再び「三菱一号館」の勇姿を目の当たりにすることとなった。都市の中心部において、明治期の赤煉瓦建築を同じ場所・同じ姿で復元する――無論、初めての試みであり、英断である。』

「三菱一号館美術館」
【東京駅丸の内駅舎】★
都バスは「東京駅丸の内駅舎」の向かい側が終点となる。
東京駅丸の内駅舎は「日本近代建築の父」と言われた辰野金吾により設計され、1914年に開業した。昭和20年の戦災でシンボルであった南北のドームが消失し、その後の復興で3階建てから2階建てに改修された。
2007年になり大規模な保存・復原プロジェクトが開始され、2012年に完成した。南北のドームも再現され、八角形のドームのコーナーに配置された8羽の鷺や8体の干支のレリーフも見事に蘇り、創建時の王風建築が楽しめるようになった。

「東京駅丸の内駅舎」
丸の内南口の建物内に入ると、丸い広場になっている。
正面には長距離列車の発車時刻を知らせるデジタル表示が出ている。
私はベトナム人実習生とはここで待ち合わせるのだが、電車の無い国から来た人達なので、いつもなかなか会えない。東京駅がこんなに混雑していて、しかも多くの改札口があるのを分かっていないからである。
広場の真ん中に立ち上を見上げると、ドームの天井が美しい。
カメラを地面に置きタイマーをセットして、カメラを上から覗くと自撮りの面白い写真が撮れる。

「東京駅丸の内駅舎」の天井
東京駅は長細いので、なかなか写真に収まり切れない。
撮影に一番適した場所は南端に建つKITTEの6階で、ここは屋上庭園になっている。
天気の良い日にここへ上ると、とても気持ちが良い。
そこから目の前に見える南ドームの光景は、新1万円札の裏側に描かれている。
真正面から撮影したければ丸ビル4階のテラスが良いが、全景は入り切らない。

「東京駅丸の内駅舎」南口
【丸の内パークビル】★
三菱一号館美術館の並びの東京駅寄りに、とても古そうな構えのビルがある。
ビルの名前は「丸の内パークビル」で、外側に巨大な柱が並んでいるのを見れば誰でも「古い」と感じる。試しに中に入って驚いた。全く新しいビルで、外だけ古そうにしているだけだった。
三菱地所が1998年から東京駅西側の再開発を行い、これを第一ステージ、2008年から10年を第二ステージとして工事を行って来た。このビル建設は第二ステージで、三菱商事ビルヂング、古河ビルヂング、丸の内八重洲ビルヂングの跡地を利用している。更にこのビルには、アメリカで安全保障で買収が長引いた「日本製鉄」の本社が入っている。

「丸の内パークビル」
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