父が死んだ知らせを受け、
翌日僕は北海道から横浜に向かった。
この数ヶ月で何度も往復した。
本当に親父は死んだのかなと思ったが、
ちゃんと死んでいた。
しかし遺体を見ても泣き崩れることはなかった。
やはり淡々としていた。
もうとっくに別れの覚悟もしていたからだろう。
その後、
葬儀を済ませ、相続手続きなどで
バタバタと時が進んで行った。
こうした面倒なことは全て長男の僕がやった。
こうして時間がまた過ぎて行った。
その間の弟はというと、
かつての親父の担当医に相談をしながら
まだできる治療を試みていた。
実は弟はスペインから帰国をする前に
僕と電話で話をしていたときは
「余命半年もないのかもしれないのであれば
もうジタバタしないで東洋医学を試しながら
痛くなって耐えられなくなったら
どこかのホスピスで緩和ケアしてもらって死ぬよ。」
と言っていたのだ。
癌のような病は
いろいろと考えさせられる病である。
たとえ完治したとしても
また再発しないかと怯えることにもなる。
つまり、「死ぬこと」という
多分人生最大のテーマと向き合わざるをえないのだ。
癌だとわかって通常はすぐに死ぬことはない。
場合によっては何かの理由で消滅してしまう
こともあるわけで、
つまり絶対的死の宣告ということではない以上
生きる希望があり、
いつまでなのかわからないながらも、
生きている時間が確かにある。
だからいろいろなことを考えることになる。
弟とは彼が末期がんを宣告されてから
そして治療を続けていく間もずっと
治療の方法の情報交換や
死についてや
死んだ後の整理についてとか
やりとりをずっとしてきた。
その中で、
癌に対して手術や抗がん剤に頼らない考えや
いわゆる民間療法的な情報もたくさん出てきてきたが、
とにかく色々と議論をし、
結局治療の方向を試してみることになった。
緩和ケアに入る前に
まだやれることはやってみようよ、
ということだ。
結局、帰国後、
彼は西洋医学的アプローチを選択しながらも
同時に東洋医学的アプローチもしていこうと、
放射線、抗がん剤、クエン酸、ウコン、発酵松の葉、
あるいは東大が開発した治療薬などなど・・・
試せるものは全て試してきたようだ。
その甲斐もあってか、
横浜の実家に帰ってからも
定期的な検査では小康状態が続いていた。
実際のところ、何が効いていたのかわからない。
こうして親父が死んでからも、
あいつは母親と二人でしばらく
おとなしく暮らしていた。
だが、長く一緒に暮らすと
お互いのことを再認識してきたのだろう。
たとえ親子であろうと、
一緒に住んでストレスが湧かないわけがない。
離れているからいい場合も多いのだ。
母は耳が遠く、
弟は声がなかなか出てこないので
毎度大きな声を出すのがストレスとなる。
聞こえていないかと思って大きな声を出すと
そんな大きな声でいわなくてもいいのにと
文句を言われる。
ひとりはもうに90歳近い老婦人。
脳出血で頭蓋骨も切って手術をしていて
耳が遠くて頭も鈍ってきてはいるが、
体は健康で頑固さは健在。
ひとりは余命を宣告されたこともある
癌を抱えた50代。
親父に似て短気なところがある男。
日に日に衝突が増えていたようで、
彼らの生活は1年で終わった。
「もう耐えられないよ。」と言い残して、
弟はスペインに帰ることにしたのだ。
2024年の春のことだった。
(つづく)
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