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なぜ、死に抵抗するのか

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1年以上ぶりに、室蘭の友人を訪ねた。俺より少し年上の先輩である。
数年前、脳出血と脳梗塞で何度か救急搬送されたことがある。奥さんに先立たれてから久しいが、軽い後遺症を抱えながら一人で暮らし、ひたすら伝統芸能の作品を作り続けている。

なかなか会いに行けないのに、たまに顔を合わせると不思議なほど「久しぶり」という感じがしない。時間とはつくづく不思議なものだ。

奥さんが健在だった頃から、二人に会うのは楽しみだった。話題は尽きず、彼らが手がける伝統芸能の作品のこと、ジャズのこと、昔話、それに世の中や政治にまで話が弾んだ。特に彼の博識には、いつも感嘆させられた。

その奥さんが、闘病の末に逝った。普段は頑固で強気に振る舞っている彼の落ち込みようは見ていられないほどだった。あれほど奥さんに悪態をついていたくせに……いや、だからこそなのかもしれない。長い年月をともに過ごす中で、二人は特別な間柄になっていた。互いに作家として高め合う存在として、そしてソウルメイトとして、確かな絆で結ばれていたのだろう。

その特別な存在を失ってまもなく、彼は脳出血で倒れた。 意識が遠のく中で、なぜか強烈な空腹感に襲われたという。麻痺した身体を引きずり、床を這って数メートル先のキッチンへたどり着き、思うように動かない手で釜の飯を貪り食い、そしてまた意識を失った。話を聞いているだけで、その壮絶な光景が目に浮かぶ。

自分だったらどうだろうか、と考えた。
きたい妻に先立たれ、脳出血で倒れたとき、彼のように本能的に生へ向かうだろうか。それとも、そのまま諦めて意識を手放し、できればこのまま誰にも迷惑をかけずに逝きたいと思うだろうか。

人はなぜ、死に抵抗するのか。

若ければ「もっと生きたい」という気持ちはわかる。だが、相応に歳を重ね、残りの寿命が見えてきたとき、すっぱり観念することはできないものだろうか。

もしかしたら、生きようとする衝動は「死ぬのが怖い」という意識にあがる感情より、もっと根源的なところから来ているのではないか。どうやらDNAに刻まれたプログラムのようなものが、意識の届かない場所で作動しているのではないか?最近はそう考えるようになった。

誰もが「迷惑をかけずに死にたい」と思うのに、潜在意識がそれを許さない。
ひるがえって、かつての武士が潔く切腹できたのは、思想や信念によってというより、むしろそのプログラムが潜在意識に書き込まれていたからかもしれない。それが自分の意志でプログラムが書かれたものかはわからないが。

久しぶりに彼とスタバで話をしながら、そんなことを考えた。

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犬と暮らしとカヤックと

kayaker

豊浦町でワンコたちと暮らし、たまに海で遊ぶ日常をつづります。

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