久しぶりに海岸を歩いた。波打ち際に、巨大な透明のかたまりが打ち上げられている。近づいてみると直径40センチはあろうかというクラゲだった。少し離れた場所にも、小ぶりなものが数体、波に揺られている。

まじまじと見つめると、透明な傘と縞模様が美しい。まるで宇宙から飛来してきたUFOのようだ。Googleで調べると「アカクラゲ」らしい。毒を持っていて、触手に触れるとかなり痛いという。乾燥させて粉にするとくしゃみを引き起こすそうで、大坂夏の陣で真田幸村が使ったという逸話まである。
このクラゲの寿命は1年足らず。その間、これほど大きな体を持ちながらも、ただ海中を漂うだけだ。そして最後は、こうして浜辺に打ち上げられて果てる。
脳を持たないクラゲには意思がない。どこへ行こうという目的もなく、海流に身を任せ、行き着く場所で一生を終える。運が良ければ触手に触れた小魚を麻痺させて餌にありつけるし、運が悪ければマンボウに食われて終わる。完全な受け身。その生き方は動物というより、むしろ植物に近い。与えられた環境を変えようとはしない。なんとも虚しく見える。

一方、人間はどうだろう。
我々には脳がある。過去の経験から危険を回避し、生存に必要な行動を選択し、延命に努める。目標を立て、計画を練り、懸命に生きる。能動的な生き物だ。
しかし、本当にそうだろうか?
赤ん坊を思い浮かべてほしい。腹が減れば泣く。オムツが不快になれば泣く。大きな音にも、痛みにも泣く。これは赤ん坊が「泣こう」と考えているわけではない。生まれながらにプログラムされた「反応」だ。それがいつの間にか、我々は自分の意思で行動していると感じている。
だが、その「意思」はどこから来るのか?DNAに刻まれたプログラムか、過去の経験の記憶から生まれるものではないか。そうした考えが浮かばない限り、その選択肢すら存在しない。結局のところ、我々もまた「反応」で生きているのではないか。
「いやいや、それでも自分で選択しているでしょう」とあなたは言うかもしれない。
では、考えてみてほしい。

もしあなたがコーヒーを飲みたいと思い、砂糖を入れずに飲んだとする。それは本当にあなたが決めた選択なのか。
まず、なぜコーヒーを飲みたくなったのか。喉が渇いていたからかもしれない。テレビでコーヒーを飲む芸能人を見たからかもしれない。どこかで甘い香りを嗅いだからかもしれない。いずれにせよ、これらはあなたの意思ではない。外部からの刺激だ。
そして「コーヒーが飲みたい」という欲求も、コーヒーを淹れる行動も、あなたの意思ではなく、過去にプログラムされた「反応」が起きているだけではないか。紅茶ではなくコーヒーを選んだこと、健康のために砂糖を入れなかったこと──これらのアイデアも、あなたが「思いつこう」としたわけではない。勝手に浮かんできたのだ。
それはコーヒーを飲む行動でさえ同様だ。カップを取り出し、お湯を沸かし、コーヒーを淹れる。その一連の動作を細かく見れば、あなたはいちいち何も考えていない。体が勝手に動いているだけだ。
車の運転ならもっとわかりやすいかもしれない。あなたは出発してから目的地に着くまで、ほぼ無意識に運転しているはずだ。アクセル、ブレーキ、ハンドル操作──そのひとつひとつを「今、右足でブレーキを踏もう」と考えてはいない。
これは「人間に自由意志はあるか」という古くからの問いだ。
心理学や神経科学の分野では、何年も前から「自由意志は存在しない」という実験結果が積み重ねられている。古典物理学や量子力学でも同様の議論がある。だが、もし自由意志がないとなれば、法学や社会学における「責任能力」という概念が揺らぐ。だから、それは認められない事実なのかもしれない。
科学的証明には限界があるだろう。それでも俺は「自由意志はない」という立場をとる。
そうなると、人間の生き方はクラゲと本質的に変わらないことになる。
我々もまた、ただ夢を見ながら海を浮遊しているだけなのかもしれない。そう思った瞬間、俺は打ち上げられていたクラゲたちを海に戻していた。自分の意思でそうしたのか、それとも何かに「そうさせられた」のか。クラゲへの共感も、それを海に返す行動も、すべて俺の脳内で勝手に起きた反応だったのだろうか。あれ?そうなると俺はいったいどういう存在なんだ?
この文章を書きながら、実に奇妙な気分になってきた。

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