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写真で見る七福神(3)

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【石浜神社】(寿老人)
「橋場稲荷神社」を出て、その先にある「石浜神社」に向かった。
そこまではタクシーに乗るか、歩いて行くしか交通手段が無い。
20分くらい歩いて広い場所に出たら、そこが「石浜神社」だった。

かなり広い敷地の入口に、なぜか野菜売り場があった。
小さなキャベツが3個で1000円だが、これが安いのかどうか私には分からない。

 「石浜神社」

鳥居をくぐり本殿に向かう。この神社の歴史を調べたら、次のように書いてあった。
『当社は724年9月11日、勅願により鎮座され、以来1298年の歴史を持っています。1189年、源頼朝の奥州征伐に際して社殿を寄進、1281年蒙古襲来の折、必勝を祈念しての鎌倉将軍家お取次ぎによる官幣のご奉納などを経て、・・・』

『中世初めには大社としての発展を見ました。特に千葉氏、宇都宮氏などの関東武将の信仰は篤く、関八州より多くの参詣者を集めたと伝えられています。東に隅田の大川、西に霊峰富士、北に名山筑波といった名勝に恵まれ、・・・』

『江戸近世に「おける社運はさらに隆昌、「江戸名所図鑑」などにも納められるところとなり、「神明さん」の通称のもと市民にその名を馳せました』。

石浜神社の本殿の提灯

ここは境内が広くアチコチに色々な神様を祀っているので、肝心の「寿老人」を探すのに苦労した。色々と探したが見付からないので、多分、本殿の中だろうと思って本殿でお賽銭を入れてから奥を覗いた。

すると木箱のようなものが並んでいて、1つだけ扉が開いていた。
それが寿老人だったが、よく見えない。奥に立っている姿が見えるが、カメラのピントが合わない。今まで何ヵ所かでは全く見られなかった寺社もあったのだから、「見えただけも良かった」とした。

  開いた扉の中に見える「寿老人」

【鷲神社】(寿老人)
「酉の市」で有名なのが「鷲(おおとり)神社」である。
浅草松屋前から都バスに乗れば、10分くらいで着く。
この神社のご祭神は「天日鷲命」(アメノヒワシノカミ)と、「日本武尊」(ヤマトタケルノカミ)である。

熊手の発祥の地としても知られているが、それは次のような神話から来ている。
『日本武尊が東征の帰途、鷲神社の松の木に武器である熊手をかけて、勝ち戦のお礼参りをしたことから始まった・・・』

『その日が丁度、11月の酉の日であったことから、その日に神様を慰める祭りが行われるようになり、それが酉の市の始まりである』。
なお武蔵坊弁慶の「七つ道具」の中にも熊手がある。

 「鷲神社」の立派過ぎる鳥居の入口

「鷲神社」の歴史を調べてみたら次のように出ていた。
『天照大御神が天の岩戸にお隠れになり、天宇受売命が岩戸の前で舞を舞われた時、楽器の弦を奏でられた。命の父神、天手力男命が岩戸をお開きになると、その弦の先に鷲がどこからともなく飛んで来て止まった。・・・』

『その様子を固唾をのんで見守っていた八百万の神々は、その光景を世の中を明るくする瑞祥だとして、鷲の一字を入れて「天日鷲命」と称した。そして天日鷲命は、開運、開拓の福神として当地に鎮座された』。

「酉の日」以外の鷲神社は訪れる人も少なく、まるで違う神社に来たような雰囲気である。境内で熊手を売る店が出る「酉の日」に初めて行った時は驚いた。熊手屋が所狭しと150軒も出ている。更に神社のかなり手前から、境内に入る為の行列が出来ているのである。

「茅の輪」をくぐり参拝する。

私が「鷲神社」に行ったのは「成人の日」だったせいか、参拝客は少なかった。
参道に「茅の輪くぐり」があったので、作法に従って「左足からまたいで左回りする。元の位置で礼をして、右足から右回りして礼。また左足から左回りで礼。最後に左足から入り神前で二礼二拍一礼をする。

本殿の中を覗いてみたが、「寿老人」は見えなかった。大きな「撫でおかめ」があるだけだった。社務所に寄って係の女官に聞いたら、『本殿の中にあるが、見えない』と言われた。
ガッカリである。七福神は神様だから、「見える必要はない」のかもしれない。

本殿の中には大きな「撫でおかめ」が飾ってある。

【吉原神社】(弁財天)
吉原はご存じの遊郭のあった場所である。遊郭と言えば「花魁」であろう。
昨年はNHK大河ドラマで「べらぼう」が放映されたので、吉原を訪れる人が増えた。
昔の吉原は「吉原神社」からも近いが、今では面影も無くソープランドとなっている。

「吉原神社」は「鷲神社」の裏手に位置し、神社からも歩いて数分の距離にある。
この辺りは吉原という場所が関係あるのか、道路が真っ直ぐではないから、慣れていないと目的の場所になかなか行けない。

 「吉原神社」

ここでも「吉原神社」の歴史を調べてみた。
『当社は吉原遊廓とともに歩んできた神社です。吉原遊廓は1617年、幕府の許可を得て庄司甚右衛門が江戸市中に散在していた遊女屋を日本橋葺屋町の東隣(現在の日本橋人形町周辺)に集めたことにはじまる。・・・』

『この地には葦が生い茂っており、そこから「葦原」、転じて「吉原」と命名さた。しかし次第に吉原が江戸の中心地になってしまったため、1667年に当時は竜泉寺村と呼ばれていた現在地に移転となった。以後、日本橋葺屋町付近にあった頃の吉原を「元吉原」、移転後の吉原を「新吉原」と言う。・・・』

『新吉原には廓の守護神として五つの稲荷社が存在し、吉原の入口である大門の手前に「吉徳稲荷社」、廓内の四隅には榎本稲荷社、明石稲荷社、開運稲荷社、九郎助稲荷社がお祀りされていた。その後明治14年に、これら五つの稲荷社が合祀され、総称して吉原神社と名付けられた』。

「吉原神社」の本殿

「吉原神社」の前に行ったら、なぜだか大勢の外国人観光客が来ていた。
今回の七福神巡りでは、浅草寺以外で初めて外国人観光客を見た。
彼らは社務所の前に集まって、御朱印をもらうつもりのようだ。
多分、外国人用のガイドブックに「花魁」関係で、この神社が載っているのだろうと思う。

彼らが去るまで待ち、空いたところで「弁財天」を探したが見付けられなかった。
本殿には「べらめえ」の写真と、アニメ風の花魁の姿が飾ってあった。
神聖であるべき神社で宣伝臭がして、少し嫌な気持ちになった。

吉原神社の本殿は「べらめえ」と「マンガ」が飾ってある。

係の女性に聞いたら、「吉原神社」には「弁財天」は置かれていないと分かった。
そこから150メートル先の「末寺・吉原弁財天本宮」にあると分かり、そこへ向かう。
こちらはもとは大きな神社で池もあったが、現在では全く小さな池と赤富士の滝などがある。

狭い境内に入ると1957年の売春防止法の施工で幕を閉じた、吉原遊郭の歴史を伝える「花吉原名残碑」がある。中央には関東大震災で亡くなった方々を慰霊する「吉原観音像」や、奥には小さな社殿がある。

社殿の中を覗いたら、小さな弁財天が座布団に坐っているのが見えた。
境内は回廊風になっているので、出口に向かったら小さな「遊女の墓」があった。

「弁財天」(末殿・吉原弁財天本宮)

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伊達季節移住のススメ

心の伊達市民 第一号

北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。

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コメント(2件)

  • 七福神巡りシリーズでざっと見た印象ですが、赤色が多い、ということです。神社の鳥居や本殿などにも赤。伊勢神宮や出雲大社などの格式の高い神社は赤色を使わない、と思ったのですが、奈良の春日大社や京都の平安神宮は赤ばかりだ。もう少し研究してみようと思う。

  • 浅草の「竜泉寺村(現在の台東区竜泉)」
    こちらは地名・寺院に由来する歴史的な名称です。
    由来: かつてこの地にあった「竜泉寺」というお寺の名前から村名がついたとされています。
    歴史的背景: 江戸時代から続く古い地名で、樋口一葉の小説『たけくらべ』の舞台としても非常に有名です。現在は「竜泉」という地名として残っています。
    2. 八王子の「竜泉寺の湯(竜泉寺温泉)」
    こちらは愛知県に本社を置くオークランド観光開発株式会社が運営する温浴施設ブランドです。
    由来: 1989年に名古屋市守山区で創業した際、近くにある国宝を所蔵する名刹**「松洞山 竜泉寺(りゅうせんじ)」**のすぐそばで開業したことから、その名を冠して「竜泉寺の湯」と名付けられました。
    八王子の店舗: 正式名称は「竜泉寺の湯 八王子みなみ野店」で、名古屋発祥のチェーンが関東に進出した店舗の一つです。

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