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写真で見る七福神(1)

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以前に丸の内で行われた浅草寺の「仏教文化講座」に、仏像彫刻の先生に誘われて行ったことがある。その時に会場でもらった「浅草」という小冊子を希望したら、それ以来、自宅に送ってくれるようになった。1・2月号の最後の方のページに、「浅草名所(などころ)七福神詣で」の案内が出ていた。

全部で9ヶ所が紹介されていたが、その内の7ヵ所は行ったことがある。
それは浅草寺、浅草神社、待乳山聖天、今戸神社、橋場不動院、石浜神社、鷲神社、吉原神社、矢先神社である。
でもこの機会に「福」を頂くために、9ヶ所全部を何回かで廻ってみることにした。

小冊子「浅草」から

【浅草寺】(大黒天)
最初はお馴染みの「浅草寺」の「大黒天」を見に行った。
相変わらず浅草寺の参道である「仲見世通り」は、外国人観光客で溢れている。
中国人が来なくても、全く混雑は変らない。

入口の「雷門」の大提灯の下では、記念写真を撮る人で大混雑である。
仲店通りを抜けて「宝蔵門」に出ても、「小舟町」の大提灯の下は記念撮影で混んでいる。

 「宝蔵門」

本堂の石段を上がり、大混雑の中で行列にならびお参りをした。
浅草寺の歴史を調べてみたら、次のように書かれていた。

『628年3月18日の朝、猟師の檜前浜成・竹成の兄弟が浅草浦(隅田川)で漁していたところ、その日に限り1匹の魚も獲れず、投網に掛かるのは人形の尊像だけだった。しかしそれが観音様とは知らず海中に投げ捨て、何度も場所を変えても同じことの繰り返しだった。さすがに兄弟は不思議に思い駒形から上陸し槐の木の切り株に安置した。・・・』

『当時の文化人の土師真中知に一見を請うたところ、「これぞ聖観世音菩薩の仏像にして現世ご利益仏なり」と告げられた。兄弟は「われら漁師なれば、漁労無くしてはその日の生活にも困る。』

『明日は大量得さしめ給え」と祈念して翌日に網を打ったところ、船中は溢れんばかりの魚に満ちた。土師は間もなく剃髪して僧侶となり、自宅に寺を構えた』。

本堂から宝蔵門方面を見る。

本堂の中には「大黒天」が見付からないので、売店の係の人に聞いてみた。
すると『隣の影向堂の中にある』と教えてくらた。
早速、行ってみたが、外国人観光客で大混雑だった。

「大黒天」は入口を入って左側の、立派な厨子の中に安置されていた。
思わず写真を撮ろうと思ったら、「大黒天」の前に大きく「撮影禁止」のサインが出ていた。なぜ撮影禁止なんだろう? 撮影OKのところもある。

「影向堂」(ようごうどう)

【浅草神社】(恵比寿)
浅草寺の同じ境内で、すぐ隣に「浅草神社」はあるが、この2つの寺社には浅からぬ歴史がある。
『平安から鎌倉時代にかけて、日本の神は仏教の仏が姿を変えて現れたものという習合思想が盛んになり、浅草寺と浅草神社も不可分の関係にあった。・・・』

『浅草神社の神前で浅草寺の僧侶が読経をし、祭礼もともに行われていた。この社殿は1649年に三代将軍徳川家光が寄進し、本堂も同時に建てられた。本堂は火災で焼失したが、神社は大火を逃れ当時の姿を残している』。

浅草と言えば「三社祭り」が有名だが、これは浅草神社の旧名である「三社権現」に由来する。「三社」とは浅草寺の観音像を見付けた漁師の猟師の檜前浜成・竹成の兄弟と、その観音像を祀った土師中知の3人を祀った社のことである。

「浅草神社」

浅草神社の境内に入ると、両側に屋台が出ていた。
最近は観光客が大勢押し寄せてくるので、浅草寺の方にも多くの屋台が出ている。
浅草神社のお祭りは年間で23回もあり、その中のメインイベントが「三社祭り」である。

毎年5月の第3金・土・日の3日間行われるが、「三社祭り」を浅草寺の祭りと勘違いしている人もいる。浅草寺は檜前兄弟が海から引き揚げた観音像が本尊だが、浅草神社は檜前兄弟と観音像を祀った土師真中知の3人が主祭神なので、浅草寺の方が格が上なのかもしれない。

 「浅草神社」は別名「三社様」

肝心の「恵比寿」だが、境内をアチコチ探したが見付けられなかった。
社務所で聞きたかったが、お札をもらう人が大勢並んでいるので割り込みも出来ず諦めた。たぶん、他の寺社と同じく本殿の中に飾ってあるのだろうと思う。

だが参詣の場所から本殿の中はよく見えず、どこにあるのかは分からなかった。
「浅草名所七福神詣で」を宣伝しているのだから、誰にも分かるようにして欲しいものだ。

浅草神社の本殿の中が見えた。

「矢先稲荷神社」(福禄寿)
矢先神社は浅草寺からそう遠くなく、地図で見ると分かり易かったのでプリントしなかった。それが後に大変な苦労をすることになるとは、行く前には思ってもいなかった。
浅草ビューホテルの横を入り、少し行ったところを左に曲がれば「矢先稲荷神社」があるはずだった。ところが見付からない。

ウロウロして探したが無い。駐車場にいた人に聞いたが、分からなかった。公園に出た。
嬉しいことに、そこにあった掲示版に地図があった。どうやら全く違う場所で探していたようで、パソコン画面の地図は縮小がハッキリしないので間違えたようだった。
やはり行ったことの無い場所は、地図をプリントして持参すべきだったと後悔した。

「矢先神社」

「矢先稲荷神社」の歴史をネットで調べたら、次のように出ていた。
『1642年11月23日、時の三代将軍徳川家光公が国家の安泰と市民の安全祈願、並びに武道の錬成の為にこの地に三十三間堂を建立した。そして弓の射技錬成のために「通し矢」が行われた。・・・』

『京都の三十三間堂にならって建立された堂の守護神として稲荷大明神を勧請し、その場所がちょうど的の先に当たっていたので、「矢先稲荷神社」と名付けられた。ご神体は倉稲魂命を祀り、ご神体は上野東叡山寛永寺の祖慈眼大師によって寄進され、木造で翁の形をして稲を背負い、7寸8分、弘法大師作である』。 

 懐かしの井戸ポンプ

本殿の前には警備員がいて、『靴を脱いでビニール袋に入れて、手に持って入って下さい』と言っていた。中はあまり広くはないが、落ち着いた良い雰囲気だった。
みんなは天井を見上げていたが、この話は最後の回の「おまけの話」で・・・。
目当ての「福禄寿」は目立つところに、厨子に入って飾られていた。

撮影はOKで近くに寄って良く見たが、福禄寿と2羽の丹頂鶴の屏風の前に静かに座っていた。今回の七福神の旅では9ヶ所を巡ったが、ここだけが七福神を参詣者がよく見られるようになっていた。

 「福禄寿」(撮影OK)

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伊達季節移住のススメ

心の伊達市民 第一号

北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。

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コメント(1件)

  • 昔の人は写真を撮ると真ん中の人は・・・・とか魂を抜かれるとか不吉な事を考えることがあったような気がします。仏様とは神社の本殿とか尊いものへレンズを向けてはいけないという気持ちがあります。
    コッソリ撮れば判らないと思いながら「神様は見ている」と思うとやはりレンズを向けることを躊躇います。日本人だけですかね?

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