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生きてるって退屈?

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考えてみれば人生は所詮、同じことの繰り返しで退屈である。

だってそうだろう?
概ね、朝起きてから夜寝るまで、毎日同じことを何回も繰り返している。 1年365日。60年で2万日。 ときに変わったことがあるとそれは日常の変化になるが、基本は毎日同じことの繰り返しとなれば、時に退屈して死んでしまいたいと思うはずだ。 そこで、ふと時間があるときに、

「はて?私は何のために生きているのだろう?」と思う。

変化を求める人間は、外界になんらかの刺激を求める。 いや、人間というものは刺激を求めるものではないか。 その刺激をモノに求めたり、食に求めたり、非日常に求めたり、ストーリーに求めたり、人との関係性に求めたり、音楽やらに求めたりする。 その衝動は本能に基づくのか、理性に基づくのか?思考があるから求めるものもあるだろうが、その思考がどこからやってくるかといえば、過去の経験や先天的DNAからくるプログラムのはずだ。

つまり、人間はどうあっても刺激を求めるところから逃れられないように思える。 そうやっていつも生きている。それは生きている実感を得るための衝動かもしれない。

ただ、どんなに素敵な伴侶でも毎日顔を合わせていれば、そのうち飽きがくるだろう。 どんなに吉野家の牛丼が好きでも毎日食べていれば、そのうち飽きるだろう。 生きている実感が欲しくて、ロッククライミングやバンジージャンプ、スカイダイビングというように、命懸けの刺激がどんどん過激になる人もいる。

だからどんな刺激を得ても、それは永遠に満足の世界に連れて行ってくれないのは自明の理である。 だとしたら、その欲求を完全に満たすにはどうすればいいのだろうか。 若いうちには目の前のことに追われ、将来をもっとよくしたいと思う気持ちから何も考えていなかったが、歳をとって先がなくなってきて時間ができてくるとこんなことも考えてしまう。 「人間って考えること以外にやることありますか?」と哲学者の池田晶子が言っていたのを思い出す。

しかし幸せになる方法をいくら考えても、これまでもたくさんの哲学者がいろんな考えを説いてきたのも、つまり、どの考え方、理屈も人間が幸福になるための結論を出していないからだと思う。言葉(=理屈)でいくらでも言えるからだ。

そこで昔の賢人は、外ではなく内を見つめろという。 外にあるものは、もっと丁寧に観察してみろという。 そこでもっと丁寧に生きてみる。

いつもの茶碗を手にしたらその紋様や形状をじっと観察する。ご飯の米の一粒一粒の形を観察する。自分の手の指の長さの違いを観察する。いつも聞く音楽に耳を研ぎ澄ませる。すると日常のありきたりの生活が、身の回りのものの質が変わってくる。というか、丁寧に観察することでどんなことにも、気づかなかったけどいつもそこにあったものに感動することが起きる。ここはこんな形をしていたのか。どうやってこんなものを作るのだろう。なんと深い味のだろう。なんて美しい間があるのだろう。あれ?こんなにザラザラしてたんだ。この巧妙なデザインは誰がいつ思いついたのだろう……などなど。

そんな発見の中に気づくのは、この世に同じものは何一つないということ。似ているようで似ていない。変化していないものは何もない。当たり前が当たり前でなくなる。ここには退屈なんてない。なんて素敵な世界に生きているのだろう。

世界は驚きと発見に満ちている。ワンダフルだ。 知れば知るほど、世界は知らないものばかりで溢れていることに気づく。

ふとした時に、じっくりとものごとを観察するのが俺の「マイブーム」である。

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犬と暮らしとカヤックと

kayaker

豊浦町でワンコたちと暮らし、たまに海で遊ぶ日常をつづります。

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