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驚きの三内丸山遺跡

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今回の佐野元春ライブコンサートで訪れた青森市。
東北三大祭のひとつである、ねぶた祭りの迫力と不思議に触れたねぶたの家「ワ・ラッセ」の他にもうひとつ訪れたのが世界遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」のひとつ「三内丸山遺跡」である。ここは20年ほど前に家族で訪れたことがあり、感動した覚えがある。

三内丸山遺跡は縄文時代前中期の頃、今からおよそ4〜6000年前に、1500年以上にわたって縄文人が数百人で定住していた集落である。ここは、それまで縄文人は狩猟をしながら定住をしていなかったという説を覆し、それどころか彼らが高度な技術や文化も持って海上交易さえしていたという、これまでの縄文人の常識を覆す遺跡だ。

精巧なつくりのヤジリ群
ミニチュア土器は子どもが作った?それともデザインためのプロトタイプ?

縄文時代中期までは地球はもっと暖かく、縄文人たちは関東以北、東北、北海道を中心に多く分布していた。そして海岸線はずっと内陸にあった。この三内丸山遺跡が繁栄していた期間は、縄文時代で最も日本の人口が多かったと思われ、30万人近くあったとされる。居住跡から数百の集落だったとされているが、周辺をもっと発掘すればもっと大きな集落だったかもしれない。いずれにせよ、全人口で30万人だとしたら今の人口の0.25%ならば300人の集落として今で言えば12万人都市のイメージになろうか。
この間の温暖な気候は豊かな山を育み、よって豊かな海ができるという環境の中で、食料が十分に確保できたことから、その生活の余裕から様々な技術や精神文化も発展していったのではないかと思われる。

板状土偶

現代では石の産地を分析できることから、ひすいや黒曜石などの出土品はかなり遠くと交易をしていた証拠になっている。
また、土器の技術も高度なものとなり、さらに紋様をつけるなどの芸術文化の発展もしたのである。

見事な研磨技術。この大きいものを制作する時間はどれだけかかったか?

なかでも俺が一番関心したのは、勾玉などの装飾品の繊細さである。
特に、勾玉の原料となる「ひすい」は鉄よりも硬度がある硬い石であるが、当時の人はこのひすいを研磨加工をし、穴まで開けているのである。どうやって穴まで開けたか謎だったが、今ではひすいや石英などの細かい砂を棒などを回転させてピンポイントで研磨していったということがわかっている。
いずれにせよ、すごい技術であるとともに、ひとつ作るだけでも何ヶ月も何年もかけて研磨していったはずだから、その時間の使い方もすごいものだと思う。何しろ1500年の積み重ねである。

穴あけに失敗したヒスイ装飾具。硬い石は亀裂が入れば割れやすくもある。

さらにここには巨大建造物もあったということで有名だ。
発見された穴の大きさと残されていた栗の木の痕跡から高さ15mほどの柱を持つ建造物があったと思われる遺跡だが、一体何に使われたのか?当時の遠くの海まで見渡せるくらいの高さだったことから、海上交易に使われたものかもしれない。

地上部がどうなっていたかは不明

こうした繁栄も、地球の寒冷化でやがて消えていく。日本列島の人たちは暖かい土地に移動していくが、縄文時代晩期には10万人にも満たない人口に推移する。だが、南西に移っていった人たちは、そのあとに大陸や南の島々から渡来する人たちが中心になって作っていく弥生時代の素地を作るのである。いずれにせよ、最近になって、日本には縄文時代からすごい文明・文化があったことがわかりつつある。そして渡来人たちと融合しながら、日本独自の文化・歴史を作っていく。

この不思議の国、ニッポンに生まれて本当によかった・・・

ひすいの穴あけ
https://gendai.media/articles/-/123012

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犬と暮らしとカヤックと

kayaker

豊浦町でワンコたちと暮らし、たまに海で遊ぶ日常をつづります。

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