人生に無駄なものはないと言ったばかりだが、
身の回りのものには無駄と言えるものが多い。
歳をとっていくとそれがどんどん蓄積していくものだ。
無駄なものが身の回りにあると、
気を取られる機会がそれだけ増える。
つまり気を向けるエネルギーを消費するので、疲れるのである。
特にモノについては多くを持ちすぎることで、整理整頓のストレスがあり、常に整頓していなければ探し物をする上でも毎回のストレスになる。
多くのモノを持つことは、多分持つことで安心感を得たいという気持ちもあるからだろう。
それにモノを捨てるのは勇気がいることでもある。「もったいない」「いつか役にたつ」という価値観が働いてなかなか整理ができない。
しかし、モノで安心を得ることはできないのは歳をとって実感する。

俺は自分に収集癖がないと思っていたが、貧乏性ではあるようで、「これいつか使えそう」という感じでいろいろなガラクタ類を溜め込んできた。例えば何かDIYをした時の木端、金属片だったり、ハードディスクを捨てるときには分解してみて強力磁石や小さな部品を取り出し、子どもの自転車を廃棄するときにとっておいたベルなんかを後生大事に工具箱にいれておく。
そしてその後何年もして、それらのゴミをうまく活用できたときはカミさんに「ほら、捨てなくてよかったでしょ?」と自慢したりして大いに喜ぶ。

だが、そうして活用される機会を与えられるゴミたちは稀で、ほとんどのモノは日の目を見ずに、結局いつかは捨てられる運命にあるのだ。
親父が死んだ時に両親の実家を片付けた時も思った。親父の場合はガラクタ類ではなくて商品そのものだったが、例えば忘れられた老眼鏡なんて10個以上出てきたし、アイデア商品のようなものも同じものが何セットもあった。あまり使った形跡のない自動窓拭きロボットや大量の食器類など、とにかくすごい量のものが出てきて、それらはほぼ全て捨てたが、弟と二人がかりでやった本当に大変な作業だった。

自分のゴミに見える無駄なものから想像力を働かせ、「これは何かに使えそうだからとっておこう」という感覚はある種の才能かもしれないと思っている。しかし、もうあと何年生きるかわからないことを考えると、俺が死んだあとに家族に迷惑をかけるのだから、今からはできるだけ身軽にしていこうと断捨離を結構することに決めた。

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