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無駄な1日を考える(その2)

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カミさんが上京して手にした自分だけの時間。
今回も、朝5時過ぎから夜中の12時まで、十分な時間があったはずなのに、それはあっという間に過ぎ去った。午前中に少し仕事をし、友人とモスバーガーで昼食。夕方に犬の散歩をし、夜は冷凍の牛丼とワインで「紺碧の艦隊」を見たらもう深夜。もったいないと本を読み始めたが、すぐに眠気に負けた。「何をした」ということもない一日だった。

時間とは、振り返るといつもあっという間に過ぎている。一週間、一か月、そして年があっという間に変わっていく。だから「人生は短い。時間を無駄にしてはいけない」と考えるのは当然だ。

しかし、立ち止まって問いたい。効率性の高い人生は、より多くのことをこなし、ひいては幸せな人生を送るためのものだろう。だが、「効率性」を求める人生で、人は本当に幸せになれるのだろうか。

「より効率性」を求める姿勢こそが、常に「まだ足りない」と先のゴールばかりに目が行っている証拠ではないか。それは、いつも何かに追われ、「焦り」を感じ、今が満たされていないことを自ら証明しているに等しい。

「もっと、もっと」という無限のループ。年収を上げようと仕事に躍起になり、「もっと貯金を」と安心を求め続ける。現状に不満や不安があるから立ち止まることができず、「もっと、もっと」を目指す。しかし、その先には次々と新しい問題が出てきてキリがない。結局、人はいつも現状に不満を抱えた人生を過ごしていくことになる。「もっと、もっと」の先に幸せはないのだ。

「いつか未来には幸せになる、そのために今は頑張ろう」と効率を追求しているうちに、人生は終わってしまう。幸せになるために頑張っているのに、なぜいつまでも幸せは訪れないのだろうか。

近年、父と弟が相次いで亡くなった。彼らの人生を外から見ると、時間の使い方はどうだったのだろうかと考える。聞くべきだったのは、人生の終わりが見えた時、生き方や考え方に後悔はなかったか、ということだ。

今、90歳を過ぎて人生の最期を迎えようとしている親たちと、生まれたばかりの孫たちが大きく成長していく姿。消えゆく灯火と、大きな火になっていく灯火を、私は今同時に見ている。ここで、彼らも私も「今を生きている」ということは同じだ。人生はいつでも終わるが、生きているのはいつも「今」なのだ。

そこで気づく。人生、いつも先に進むことばかり考えず、「今」にとどまることができれば、地に足のついた生き方を見つけ、いつも幸せでいられるのではないか?

到達すべき目標もない。何も焦ることはない。見るべきは将来ではなく、「今」なのだ。生きているのは過去でも未来でもなく、いつもこの「今」だけなのだ。

それはつまり、ただ目の前のことを真剣に丁寧に生きていくことこそが「生き方の王道」ということだ。未来への準備ではなく、今こうして生きていることを常に実感できることこそが、幸せへの道。

そうして「無駄」に思える一日を過ごし、ベッドに横たわってそんなことを考えた。そして、明日もまたダラダラと一日を終えることができるかもしれない、という幸福感を抱きながら、私は眠りについた。

(おわり)

洞爺湖の中島から見た風景

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犬と暮らしとカヤックと

kayaker

豊浦町でワンコたちと暮らし、たまに海で遊ぶ日常をつづります。

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