中央区の図書館「本の森ちゅうおう」で「なにか面白い本はないか?」と思い探していたら、椎名誠の「ぼくがいま、死について思うこと」と、「遺言未満」という2冊の本が目に入ったので借り出した。
若い頃は「死」の話をしたりすると「縁起でもない!」と嫌がられたものだ。
でも最近は私の周りは後期高齢者をとっくに過ぎた人ばかりなので、嫌がる人はいなくなった。私より先に逝ってしまった親しい友人達が懐かしく、時々、思い出して寂しくなる。
次々と先立れ最後に残されるのは嫌であるが、今回は私の親しくしていた友人たちのことを書いてみた。

・同級生(H)
彼のことは今でも残念である。彼はものすごく姿勢が良く、歩く姿が素敵だった。
福島原発事故の時に彼はボランティアで、近くの作業員の泊まる旅館に手伝いに行っていた。ある日に同級生たちと歩いて都内を観光した。その時に彼は『都心は面白いね。まだまだ死ねないよ』と言った。
その翌日に福島県にボランティアに行き、そして帰らぬ人になってしまった。
旅館の近くの駅に車で迎えに来た女将さんの、飲酒運転による追突事故だった。
彼とは気が合っていたので、これからの人生を一緒に楽しめると思っていただけに残念で仕方ない

・同級生(E1)
彼は子供の頃からの養子で、杉並区のケーキ屋で育った。
養父はあまり仕事が好きでなかったらしく、彼が社会人になったら宇佐美の別荘に引っ込んでしまった。仕事のことは良く分からないが、多分、見様見まねで憶えたのだろう。
彼の焼くカステラは美味しく、宇佐美の別荘に遊びに行くとカステラの耳の部分がいっぱいあった。
温泉が好きな彼とは「秘湯研究会」を作り、東北方面の秘湯を訪ね歩いた。
コロナが蔓延した時に彼は若者たちとマージャンをしていて、私の注意も聞かず止めなかった。そしてコロナに感染し、呆気なく逝ってしまった。
葬儀に行ったらみんなマスクをしていて、参列者はほとんどいなかった。

・同級生(I)
彼は零細工場を経営していた。工場を経営している同級生はほとんどいなかったので、仲良くしていた。ある時、その場所が地上げに逢い、相当の高額で買い取られて行った。
その金で彼は甲府に大きな工場を建てた。しかし当てにしていた取引先から、仕事は出なかった。
私の会社から少し仕事を出したが、焼け石に水だった。
そして会社は倒産し、彼は車の中でガソリンを被り火を点けて自らアチラへ逝ってしまった。葬儀の時は甲府まで行ったが、既に骨壺に入ってしまっていた。
僧侶の読経の時に精進落としの為に取った寿司が、直射日光を受けているのが気になって仕方なかった。

・友人(S)
彼は地元の友人で、調剤薬局と漢方薬の店のオーナーだった。
賭け事が大好きで、競艇・競輪によく行っていたようだ。私とは麻雀をしたが、いつも私の勝ちだった。自宅の隣接地が売り出された時に、彼は迷わず高値で購入した。
時はバブルの真っ最中で、その後の地価と株式の暴落で、どうにもならなくなった。
そして本業の知識から「筋弛緩薬」を飲んで、アチラへ逝ってしまった。葬儀の時の霊柩車が出る時に、娘さんが父の名を呼んで「OO万歳!」と叫んだのが印象に残っている。
『なぜ彼はもっと早く、私に相談してくれなかったのか?』と、心残りである。

・友人(M)
彼も地元の友人で、麻雀仲間だった。彼も麻雀はあまり強くなく、私に負けてばかりいた。どうにも謎の多い男で、ロールスロイスに運転手付きで乗り、インドネシアのスカルノ大統領と関係があったらしい。
スカルノ大統領が失脚したら、彼の事業も上手く行かなくなった。
金に困ったのか私達仲間に仕手株の買いを勧め、『儲かったら10%を戻してくれ』と言った。私は付き合いで少し買ったが、その後、すぐに暴落し5分の1になってしまった。
それでも私は『責任を取れ』とも言わずそのまま放置したら、5年後に元に戻ったので売却した。いつの間にかいなくなったMは、風の便りで『自らアチラへ逝った』と聞いた。

友人(H子)消息不明
税務署の外郭団体に「法人会青年部」というものがあった。
先輩に誘われた私も入会したが、そこで知り合ったのがH子だった。
彼女は男勝りで、当時始まったばかりのパソコン関係の会社を経営していた。
私は彼女と知り合ったお陰で、珍しい場所に色々と誘われた。
富山の「おわら風の盆」、「尾瀬ヶ原」、「立山室堂の雪の壁」など、なかなか行けない場所に何人かで行った。
思い出深い友人だったが、私が引退して勝どきに越してしまって縁が切れてしまった。
以前の友人に消息を訪ねたが、彼も『分からない』言った。
不摂生をしていた女性なので、もうアチラかもしれない。

(おまけの話)
・父母
私の父は1967年に56歳で亡くなったので、もう58年も前のことだ。
父は豊かな家に生まれたので若い時に大金を持ってブラジルに渡り、一時は事業で成功したようだ。しかし賭博が盛んな国なので、父はそれで全て失ってしまった。
その後、帰国する金を母に送ってもらったが、それも博打に消えた。
そして横浜港に「着払い」で帰国したという、とんでもない男だった。
50歳頃からは毎年1回は1泊の人間ドックに入っていたのに、翌年の検査では『胃がんで手遅れ』と言われた。それ以来、私は健康診断を信用しなくなり、もう40年以上も検査は受けていない。
母は1999年に86歳で亡くなった。その少し前にはボケてしまい、会社にいた私に幼児言葉で電話をして来た。ところが中野の掛り付けの歯医者にタクシーで向かい、場所が分からず運転手から酷いことを言われたらしい。穏やかな母が怒ったら、なぜか目尻の辺りの血管が「スッ」と抜けたように感じたそうだ。そしてボケが治ってしまい、死ぬまで正常だった。

・姉妹
姉はサラリーマンと結婚したが、父譲りなのか間もなく料理関係の店を始めた。
それがどんどんと大きくなり、四谷に越して「クッキング・スクール」まで始めた。
彼女は私に言っていた。『テレビで会いましょうね』と。
それは少ししか実現しなかったが、不動産好きの彼女は四谷に何軒かの家を持つようになった。
妹は銀座通りの店のオーナーの長男と結婚したが、彼はサラリーマンだった。
姉も妹もこの3年間の間に亭主が死んでしまい、自由を謳歌している。
それを見ていると、私も適当な時に「アチラへ逝きたい」と思うようになった。

・自分
今でも思うのは「22歳でニューヨークに行ったことが、その後の私の行き方に影響した」ということである。
オヤジはいつも私に言っていた。『世界は広いぞ。若い内に外国を見ておけ』。
1966年の大学4年の時に私はニューヨーク世界博覧会の日本館の従業員募集に応募して、90倍の競争に勝った。そしてアメリカで見たことをことを、細かく手紙に書いて家に送った。「セコム」、「すかいらーく」などは、その頃のアメリカの真似だったのである。
今はもう外国へ行く元気も無いし、食べたいものも無いし、なにも希望は無い。
出来たらボケずに早くアチラへ逝って、級友たちに会いたいものだ。

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北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。
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実にユニークな友人たち、ご家族達です。
長く付き合ってきた友人、深い理解のあった友人、共に励ましあって生きてきた友人を失うことは、手のひらの中の宝物がすっと指の間から流れ去ってしまったような感じでしょう。
私も昨今、葬式や思い出の会への出席で忙しい身、となりつつあるようになりました。
H君、EI君、I君は同級生である。それぞれに深い思い出がある。同じ歳の仲間の「死」というものは特別な感傷を覚える。その人のこれまでの生き様を考えると何時も自分の生き様を反省してしまう。大過なく平凡に過ごしてきた自分の人生への問い掛けである。このままでいいのか?人生の終わりが近くなり取り返しがつくものでもないが!