生麦は今の横浜市鶴見区。
母方の先祖は生麦の商家だったらしい。
僕はそのことを祖父からよく聞いて育った。
代々のお墓のあるお寺に小さい頃から連れられて
大人になってから自分の先祖に興味を持った。
インターネットで色々と検索し、
先祖を辿れる情報がないか調べていくうちに、
生麦郷土史会というような地元の研究会が編集した
郷土史本があったのでそれを入手した。

この本は特に江戸時代の史料が多くあったが、
その中に僕の母方の先祖と思われる「海老塚」の情報が載っていた。
生麦は鶴見川の河口にある町。
生麦の漁師たちは貝をむき、貝殻を道に敷いていた。
貝の「生むき」から転じて「なまむぎ」になったのではないか
とも言われている。白い貝殻が敷き詰められていたので、
この辺りの道は貝殻道とも呼ばれていた。(鶴見歴史の会より)
まあ、海老塚というファミリーネームからして、
先祖は多分海老などの海産物を扱っていた漁師か
商人だったのだろうと思っていたら、
開港直後の横浜では「村田屋運送店」として
雑貨、乾物、雑穀を扱う運送業などを営んでいたらしい。

その海老塚勘左衛門の先祖は生麦にある
幕府の鷹匠のためのフィールドを
管理するようなその下役であったが、
当時の海老塚丹蔵(ちなみに祖父の名は泰蔵)は
1780年に違反をしたために
その役を取り上げられたととも書いてある。
そんな生麦で暮らしていた先祖だが、
ある日大名行列の最中にとんでもない事件の目撃者となる。
そう、あの「生麦事件」である。
1862年に薩摩藩島津一行の行列に無礼をした英国人たちが斬りつけられ、
死亡者まで出したあの事件。学校で習ったことがある。
この事件を機に、薩英戦争で薩摩藩は賠償金を払ってイギリスに近づき
その後下関砲撃にあう長州藩と手を結んで
尊皇・開国・討幕運動に進んでいくわけで、
そう見ればこの出来事はこの時代に重要な事件だったといえよう。
勘左衛門(海老塚)はこの事件を目撃し、
駆けつけた神奈川奉行への第一通報者として
記録に残っていたのである。
なんともあの有名な事件に(通報者ではあれ(笑))
ご先祖様が関わって記録されていたとは・・・
なんともびっくりしたのであった。

(つづく)
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