ブログ閉鎖中の話題(2015年1月13日)
月刊「文芸春秋」の後ろの方に「オヤジ」、「おふくろ」というエッセイのページがある。どちらもある程度の有名人が自分のオヤジやおふくろに付いて、思い出を書いているページであり、私はここを読むのを楽しみにしている。

文芸春秋 「オヤジ」と「おふくろ」
時々、もの凄くユニークであったり、ハチャメチャなオヤジやおふくろが登場する。
その子供がユニークかというと、必ずしもそうではない。
それでは私のオヤジとおふくろはどうだったのか?
私がボケる前に記録しておこうと考えた。

アナと雪の女王の氷の城 (丸ビル)
オヤジの正確な生年月日は忘れたが、明治の終りか、大正の初めに近かったと思う。
八王子の豊かな織物工場の家の五男に生れた。兄弟・姉妹は12人である。
20歳の時に、何を思ったのか1人でブラジルに渡った。
それも親からもらったかなりの大金を持って・・・・。

スヌーピーのご一行さま(六本木・TOHOシネマ)
ブラジルでは商売をやって、一時は大成功したようだ。
しかし、有頂天になって博打に嵌り全てを失った。
そして野宿生活もしたらしい。 これだけで、かなりハチャメチャなオヤジだ。
今となってはオヤジから、「ブラジルの話をもっと聞いておけば良かった」と思っているが、それももう手遅れだ。
そのせいで私が大学生になり賭け麻雀をやっているのを知って、オヤジはすごく嫌がった。でもオヤジの血を引いているのだから、自分ではどうしようもない。

ウズベキスタン生まれの我が家の愛猫「ラーちゃん」。
その後、オヤジの父が危篤となり、日本へ帰ることになった。
だが全く金が無い。仕方なく、母がみんなに隠れて帰国の船賃を出してくれた。
だがその時は兄弟たちは織物工場の経営者になっていたので、手ぶらで帰国するのが恥ずかしくお土産用の金を作ろうとしたらしい。
そしてまた博打をし、それも全部すってしまい、最後は乾汽船の横浜港着払いで日本へ帰って来た。その後、父の実家の知り合いの機械メーカーに潜り込み、サラリーマンになったのである。

マンションの部屋は乾燥しているので、加湿器は必需品
そして少しずつお金を溜めて、小金井に自分の工場を持った。
この辺から私の記憶にもあるのだが、オヤジは自分の会社があるのに、朝になると勤めに出る。すると入れ替わりに社員が出社して働き出す。
社員が帰るとオヤジが会社から戻り、仕事を続けるという妙な会社だった。

やはり日本人には富士山である。(かなり以前に飛行機から)
その後、徐々に仕事が増えて金属家具の下請けメーカーとなり、その仕事に必要な機械を開発した。そして、努力をして子供4人を育てた。
私は大学を卒業してニューヨークに行ったのだが、その1年後にオヤジは胃癌に倒れた。そして、56年の生涯を閉じたのである。
ゴルフだけが趣味のオヤジだったが、それも下手で、だがみんなに好かれていた。
私はオヤジに楽をさせてやれなかったのが、唯一の心残りである。

フカヒレ麺・1880円。 (Joe’s Shanghai NY 銀座店)
(おまけの話)
おふくろは大正生まれであることだけは間違いない。
オヤジとおふくろは、保険屋の勧誘員の紹介で見合い結婚をしたそうだ。
ブラジル帰りのオヤジは結婚相手の条件として、ただ1つ「モダンな人」を希望したという。その頃に「あいこさん人形」というのが流行っていたそうだが、おふくろの名前が「愛子」なのが決め手になったようだ。

アナと雪の女王のクリスマスツリー。3億円(GINZA TANAKA )
おふくろには兄2人、姉1人がいる。 母親は早くに亡くなり、叔母に育てられた。
父親も30代で亡くなってしまったので、子供4人だけが残された気の毒な家族だった。
若くして亡くなった父は遊び人で豪快な人だったそうだ。
それでも、亡き父が西麻布に何軒もの家作を持っていたので、お金には困らず、誰も働いていないのに男は2人とも大学まで出ている。

歌舞伎座は「大入り満員」が続いている。
おふくろは几帳面だけが取り柄のような女で、子供にも口やかましかった。
心配性でもあったので、オヤジが正月休みにハワイに行こうという誘いを断った。
「お金がもったいない」というのが、その理由だった。
オヤジが亡くなった後におふくろは、「あの時にお父さんの誘いに乗ってハワイへ行っておけば良かった」としきりに反省していたが、その時は遅かった。
そしてある寒い朝にトイレの帰りか心臓発作で、86歳でベッドの脇で亡くなっていた。
両親の生涯をこんなに短く書いたが、果たして自分の人生はオヤジほど波乱万丈であったか? でも、自分では普通の人よりは少しだけユニークな人生だったと思っている。

築地「すし好」のランチメニュー。
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