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[2020.07.27]
■黒松内のブナ林
黒松内町は、後志管内(しりべしかんない)の一番南に位置し、隣は長万部町、豊浦町と接する。ここの歌才(うたさい)ブナ林は最北のブナ林として知られ、いまも自然のままのブナの森が保たれている。 
黒松内の人びとに、ブナ林の素晴らしさを初めに説いたのは新島善直(にいじまよしなお)だっただろう。 



後志管内・黒松内町のシンボル、歌才ブナ林。92ヘクタールの丘陵地に1万本ものブナが広がり、その平均樹齢は150年。いまだ人の手が加えられていない、貴重なブナの森である。この歌才ブナ林を国の天然記念物に指定するように働きかけたのが、天然記念物調査員の新島善直だった。北限のブナ林の候補地は、歌才の他に二つあったが、新島は最も感動した歌才ブナ林を、調査会に強く推薦した。 
「後志国歌才ぶな原始林について 
ぶなの最北の分布区域にしてこの地以北に至りてぶなは明らかに消滅するものなり。本原始林はほとんどぶなの純林にして黒松内付近に位置す。本州より北上し来れるぶな林の極北端をなす森林にして、研究上重要なるのみならず、ぶな林の研究上においても、黒松内停車場付近にあるをもって至便なりと言うべし。周囲はほとんど全く開墾しつくされたる土地中にかくのごときぶなの原始林を残留せるは奇跡というべし。よりて天然記念物として永久に保存し、植物学上の研究に利用すべきものなり。(後略) 
大正11年10月」 
この調査に基づき、昭和3年(1928)、歌才ブナ林の天然記念物が決定した。 
新島善直(1871〜1943)は北海道帝国大学の教授、林学の学者である。 
幕府直参の新島善之の長男として明治4年に東京府小石川に生まれた。中村正直の同人社に学び、1888年に駒場の農科大学予科に入学する。翌1889年に赤坂日本基督教会で、ヒュー・ワデルから洗礼を受ける。農科大学では林学を専攻し、卒業後は助手として研究を続けた。 
1899年札幌農学校に森林科が設置されると教授として招聘される。1905年からドイツのギーセン大学で造林学、森林学を学び学位を取得する。1908年にドイツ人女性エーメルと結婚し帰国する。帰国後、北海道帝国大学農科大学林学科の初代教授として1933年まで務め、造林学、森林保護学、森林美学などを教えるとともに北海道の森林保護に尽力した。また、札幌北一条教会の長老として、林竹次郎らと共に教会を支えた。北大を退任した後に北星女学校(北星学園)の校長として女子教育に従事する。 
予科で学んでいたころに、新島はドイツ人林学者マイルという教師に出会う。そのマイル教授の教えを、生涯の座右の銘とした。 
「森林家は森林を愛する者でなければならぬ。森林家は視察力を鋭敏にせねばならぬ。日本の森林家は、林学のみでなく、材木と土地気候との関係を明らかにせねばならぬ」 
この精神を背景に新島は、その後東大林学科に進み、造林学と森林保護学を専門に研究を行う。そんな彼に札幌農学校から教授招聘の話が来たのは、28歳のときだった。明治以降の北海道では森林伐採が進み、森が荒廃してきた。そのため札幌農学校に森林科を新設して、林業経営を指導する専門家を養成することが決まり、若く熱意のある新島が抜擢された。 
 
「わたしはマイル教授から、林学を志す者は森林を愛し、森林を見る目を養わなければならないと教わった。わが生徒たちを実際の森林で実習させてやりたい」 
この思いから内務省などの関係機関に大学演習林の設置を働きかけ、2年後の明治34年(1901)には、雨竜、天塩、苫小牧の森林が演習林として大学に移管され、新島は初代演習林長を兼務することになった。新島の努力は、林業教育に大きく貢献するとともに、北海道の原生林の保存にも役立つことになった。 
新島は、ドイツ人マイル教授から林学を志す者の心構えを学び、また20世紀初頭のドイツへ留学して林学を学んだ。18世紀までのドイツは、農地や牧場の乱開発によって森林の荒廃が進んでいた。これを復旧することが緊急の課題となり、これを背景に「森林美学」という言葉が1902年あたりから唱えられるようになってきた。その背景にはドイツ古典主義のゲーテの言葉「自然は常に正しく、誤りはもっぱら私の側にある。自然に順応することができれば、事はすべて自ずからにして成る」も影響を与えている。ターラント高等山林学校(後にドレスデン工科大学)の校長を務めたコッタは、「森づくりは半ば科学、半ば芸術である」との森林観を唱えた。そして、自然の摂理と調和した森林の管理・経営論を具体化した。コッタの考えを展開させ、「森林美」の概念を森づくりの基礎として、「森林美学」の学問領域を創設したのが、弟子のザーリッシュであった。新島が留学したころは、まさにこれらのことがドイツにおいて盛んに言われている時代であったから、彼もこれらの影響を受けているに違いない。。 
同じころのイギリスでは、1902年にビアトリクス・ポターの「ピーターラビットの絵本」が初めてロンドンで出版された。彼女は後に絵本の印税で得た収入などを湖水地方の土地の買い上げに投入し、乱開発からこの地方を守った。彼女は死後、その土地や建物をナショナルトラストに寄付して、湖水地方の美しい景観が保たれた。 
欧州では19世紀末から20世紀初頭あたりに、自然を保護していく動きが各国に出てきていることが感じられる。 
トワ・ヴェール 
緑の屋根の意。黒松内町では町内交流施設は緑の三角屋根で景観を統一しようとしている。 
この建物では、ハム、ソーセージ、チーズなどの加工や販売を行っている。 
 
 
話は歌才ブナ林のことに戻る。後年、このブナ林は二度の伐採の危機を乗り越えた。 
一度目は新島が亡くなった翌年の昭和19年(1944)、太平洋戦争末期である。 
資材が乏しくなった日本では、飛行機のプロペラ用に木材を使おうとして、このブナの木を伐採することが軍によって進められようとした。たまたま黒松内に居合わせた北大植物生態学の舘脇操教授は、機転を利かせ、天皇陛下の名を借りて天然記念物の伐採はまかりならぬと通し、軍を引きあげさせた。舘脇教授も新島教授からこのブナ林の大切なことを受け継いでいて、思いを同じにしていたのだろう。 
二度目は昭和29年(1954)に黒松内村自身の問題が発生した。当時近郊の村との合併の話が進んだが、村の財政赤字を埋める必要が生じた。そこで歌才ブナ林を伐採して、その補填に回そうとしたのである。このときこの危機に立ち向かったのは、大正時代に新島教授を初めて歌才ブナ林に案内した中川さんだった。当時新島から聞いた「ブナ林からの恵みはお金で買えるものではない。未来の子どもたちのためにこのブナ林を残していこう」という話で村民を説得した。また林野当局の理解もありこの伐採の危機を脱することができた。このような危機を乗り越え、現在では町づくりのシンボルとしてブナ林は保全・活用されている。 
ブナという木は、北海道西南部から本州、四国、九州の温帯に広く分布しており、冷温帯のことをブナ帯ともいう。北限は現在北海道寿都郡、南限は鹿児島県肝属郡高隅山となっている。 
垂直的には、北海道の海抜15mが最低で、本州以南では2400mに及んで生育しているが、良好な林相は、北海道50〜600m、本州600〜1600m、四国・九州で1000〜1500mに見られる。 
ブナの樹皮はなめらかな部類に入り、色は灰白色で独特の斑紋がある。これは地衣類とよばれる藻類と菌類が共生した生物。灰青色、暗灰色などさまざまな色をした地衣類の組み合わせは、まるでモザイク模様である。 
ブナという名前の由来については諸説ある。ブナ材は狂いが激しく、加工が困難で建築材には向かない。さらに奥山にあり搬出困難であったことから、「役に立たない木」から「歩の合わない木」、あるいは「ぶんなげる木」が転訛してブナになったなど云われる。また「木でない」の意味から、漢字で「橅」と書く。また別の漢字では「山毛欅」とも書く。若葉に白い毛が密生することから、葉に毛の生えた山のケヤキの意味である。 
ブナが日本海側で純林を作りやすい理由として以下のようなことが云われている。但し、秋田県の白神山地などを念頭に置いての理由であるので、すべての事項が北海道のブナ林に当てはまるかどうかは確かではない。 
・ブナは雪の圧力に耐えるしなやかな幹をもっていて、他の多くの木々より積雪に強い。 
・雪がドングリ(実)を覆い隠すと、乾燥や凍結を防ぎ、動物たちに食べられずに済む。 
・ブナの稚樹は、比較的耐陰性が強く、林床に実生や稚樹の集団をつくり、頭上の木が倒れるのを一定期間待つことができる。(やがて陽があたり伸びるチャンスを待つ) 
・ブナは耐陰性が高いかわりに生長が遅く、種子初産年齢が40年と高い。 
・200〜300年と長寿である。 
・上記2つの特徴は、繁殖より大きくなることを優先していることが分かる。この戦略は、攪乱の少ない安定した森の中では有利な戦略である。 
・日本海側は、太平洋側に比べて、山火事や人為的な攪乱も少ない。 
ブナの葉は、一般の広葉樹に比べて薄いので、比較的陽を通し、木々の森の中も明るく感じる。透過光に若葉が輝く様子を歌った句に、 
 逆光にきらきら揺れるぶな若葉 鶴女 
 ぶな若葉真昼の光透きとおる 菅原謙吾 
ぶな若葉風の形のちぎれ雲 江原富美子 
燦燦と芽吹きのブナよ寝足りしか 澁谷道 
 山の音聞きたくて来し山毛欅若葉 多田薙石 
などがあり、みなさんブナの葉がきらきらと輝くさまを歌っている。 
 
ブナの森は、緑のダムとも云われるが、その理由には、 
・天に向かって広がる大きな枝葉で雨を受け止め、まるで漏斗のように集めた雨水は、滑らかな幹を伝い滝のように流れ下って、根本へと送水される。樹幹流と云われる。 
葉→枝→幹→根元→スポンジのような林床に水を貯めこむ「緑のダム」システムである。 
・幹を流れる雨水や雪解け水は、厚く積もった有機物を多量に含む土壌に吸い込まれ、大量の水分を貯めこむ。乾燥期には、まだ新しい上層の落ち葉が蓋のような役割を果たし、深くしみ込んだ水を逃さず蓄える。さらに雪深いブナの森は、雪ダムの効果も加わる。それが「天然の水ガメ」、「緑のダム」と呼ばれる所以である。 
確かにこのブナの森で濾されて湧出する水はおいしい。黒松内の会社では「水彩の森」という名前でミネラルウォーターを汲んで販売している。わたしたちも時々購入している。またこのミネラルウォーターの工場では、製品と同じ水を工場の一郭の蛇口から一般の人が自由に汲めるようにもしてくれているので、黒松内に出かけたときには時々汲ませてもらっている。 
黒松内町の国道5号線を走っていて見かけた黄色の畑。 
菜の花畑であった。遠くからでも鮮やかな黄色は目に飛び込んでくる。 
 
 
余談になるが、ブナのある離島では北海道の南西部に位置する奥尻島が北限である。 
ここのブナの森も水を貯めて、奥尻島の住民の生活用水に充てている。また奥尻島でとれたお米と水で「奥尻」という日本酒も醸造されている。まことに奥尻島民にとってブナの森は貴重な生活水を貯めてくれるダムの役割を果たしているといえる。 
以下は資料を読んでいて、目に着いたいくつかのブナの情報である。 
日本のブナの葉は、北に行くほど大きいことが知られている。北限のブナの葉は南限の葉と比べて、葉の縦の長さにして約2倍、面積では4倍にもなる。雪解けから落葉までの時間が短い北国において、効率的な陽光の取り込みをして成長を図ろうとする戦略なのだろうか。ちなみに黒松内のブナセンターで確認しているブナの葉の中で一番大きなものは、葉の長さ19.2cm、葉の幅10.6cmである。 
ブナの北限ラインは近時動いていて、最近の研究では尻別川を越えてニセコ山塊で個体群が発見されている。現在ブナ北限の最前線は、岩内―蘭越―黒松内―豊浦を結んだ線になるといわれる。 
ブナの北限域ではブナの更新がよい。またブナの更新を阻害する要因は林床に密生するクマイザサやチシマザサ以外にない。そのため例えば笹の花が咲いて大量の笹が一度死滅するなどの攪乱が起きると、林床のブナの稚樹が伸びるチャンスが訪れて、陽をもとめて成長していくことができる。植物界にもいろいろな成長戦略が組み込まれているようだ。 
ブナの肌はすべすべしていてナタ目が刻みやすい。また成長が遅いのでこの印が長いこと残る。マタギなどは山中の道しるべに、或いはこの場所で熊を獲ったなどの印を刻んで目印とした。 
 
黒松内町のカントリーサインは「ブナの木とクマゲラ」 
が描かれている。黒松内の道の駅でこれを見たときに 
思わず買ってしまい、いまはパソコンのそばにその 
シールを貼ってある。そのご利益か、たまに有珠の山中 でクマゲラに出会えた。またことしはクマゲラの子育てのシーンに会うことができたので、ご利益はまだ続いている。クマゲラは北海道と北東北の一部にしかいない貴重なキツツキであるが、北東北では、ブナ林の中でのみ生息しているとのことだ。しかも営巣できる垂直な大木と枯れ木や老齢木が混じったブナの極相林と 
広大な面積が必要と云われている。黒松内でも広大な 
ブナ林があり、ここでクマゲラが生息していて、町の 
シンボルとなっている。わたしたちが今回歩いたのは 
5月後半であったが、森の遠くでドラミングの音が響いたので、「あっ、クマゲラがいるな!」と感じた。 
駐車場から森に入って終点までの遊歩道は、途中3つ 
の沢を越えて少々アップダウンはあるが、往復で2時間くらいである。森に入ってすぐの右側の沢沿いに、水芭蕉の葉が巨大に成長した姿が見えた。遊歩道脇ではスミレやニリンソウ、ユキザサの花などを見かけた。カタクリやエゾエンゴサクなどの花々はもう終わっていた。途中歌才川の橋を渡った辺りでは、ウラシマソウに似た薄い茶色の葉を見かけたが、釣り糸のような細長いものが見えなかったので別ものかもしれない。ブナの森は新緑で被われていた。確かに葉が繁っている割には、森の中は明るく感じた。透過光があることや木の樹肌が白っぽいことも関係しているかもしれない。ウグイスなど小鳥たちの声も多く聞こえたが、姿を確認できたのはコサメビタキだけであった。 
 
わたしが黒松内について懐かしみを感じるのは父の思い出があるからかもしれない。わたしの父は林業機械の仕事に携わっていた。山で切り出した材木をワイヤーロープに吊って、麓まで運び出す集材機という機械を扱っていた。昭和20年代の後半から北海道の林業の機械化が進み、そのため仕事で北海道の営林署を訪れることが多くなった。昭和29年(1954)に北海道を襲った洞爺丸台風で大雪山の木々が大量に倒された。この倒木を早く処理するために林道整備、機械の導入などが進んだと聞いている。北海道各地の営林署を巡り商談や納入した機械の説明や保守などの仕事が多かったのかと思う。子どもの頃の思い出で、父が出張で訪れた北海道の地名の中に黒松内があったように記憶している。わたしが定年後に伊達に住んで、近隣を巡るときに黒松内の地名を目にした。意外と伊達から近い距離にこの町があることを知り、以来時々訪れている。黒松内営林署(いまは後志森林管理署・黒松内森林事務所というのかもしれない)があったのだから、昔から森のある町、木材の町であったのだろう。 
 
◆参考資料 
・「ほっかいどう百年物語」第9集 新島善直の項 STVラジオ編 中西出版 
・Wikipedia 新島善直 
・黒松内町ブナセンターオフィシャルサイト 
・樹木シリーズ17 ブナ あきた森づくり活動サポートセンター総合情報サイト 
・「日本の北限のブナ林の特徴」 黒松内町ブナセンター 斎藤均 
 森林立地57(2)、2015 
・「森林美学の源流を訪ねて」 小池孝良(北海道大学農学研究院) 
(2020-6-27記) 
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プロフィール
mimi_hokkaido
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2007年に横浜から夫婦で移住。趣味は自然観察/山登り、そしてスケッチやエッセーを書く・・・ 
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