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[2019.11.19]
■四稜郭と三稜郭
 わが国、最初の洋式築城・五稜郭はめちゃくちゃ有名ですが、四稜郭というのがあったのを知ってますかね…?五稜郭裏門から北方3.6キロの地点に廓を四方に配した土塁、さながら蝶が羽根を広げたような形をしている四稜郭があった! 


 土塁の延長245.4メートル、総面積360平方メートルで、築造の目的は、榎本政権の本拠地五稜郭を背後から攻撃する新政府軍を牽制するためで、新五稜郭とも称したらしい…。 
 明治2年(1869)4月、兵士200人と徴募した住民100人をもって昼夜兼行で数日間で完成したという…。この時、土地の婦人たちが炊き出しで協力した。設計者は、フランス軍事顧問のブリュネ説と彼の教え子、大鳥圭介説がある。ブリュネは陣地構築を指導し、大鳥は「築城典刑」を翻訳し、ともに築城に造詣が深い…。 
 
 四稜郭の戦闘を記すと、明治2年5月11日早朝から始まる。新政府軍は長州、岡山、徳山、福山藩兵1000人で、軍監は岡山藩・水原久雄ら…。対する旧幕軍は本多幸七郎率いる200人だった…。付近の住民たちが物陰に隠れて戦況を眺めると、朝日に打ち合う刃がキラキラと光り喊声と怒号が入交じって聞こえ、戦いの凄まじい光景には身震いするくらいだったそうで…。新政府軍は10人が死傷し、旧幕軍は2人の死体を残して敗走する…。 
 
 四稜郭は昭和3年(1928)、函館の教諭・菊地孝男氏が東照宮の由来を調査中に偶然畑の中に土濠のあるのを発見し実在が確認された!菊地氏は箱館戦争の記録を調査し、新五稜郭と記されているのと合致している事から”四稜郭”と名付けた…。NHKの放送で紹介したりして、昭和9年には国の史跡に指定されている。 
 掲示板がなければ通り過ぎてしまう何の変哲もない土塁であったようなんですけど、昭和43年(1968)に当時の亀田町が1000万円を投じて復元整備し保存に努めた…。箱館戦争を語る時、四稜郭は規模が小さいが必ず話に出る。城郭史にも名を残している…。 
 
 実は、本当は三稜郭というのもあったらしいです。詳細はよく分かりませんけど、ご存じの方は、一報を…。 
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タリズマン・マスター
タリズマン・マスター
1995年から、この伊達市に、占いスペースを開き、運命アドバイザーとして占いをおこなっています。  
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占いに使うアイテムは、タロットカード、占星術、など、多岐にわたりますが、アイテムをガイドとして使いながら、霊感によって、その人の本質を霊視します。  
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