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[2013.12.15]
■即身仏 9 宥貞法印
 今年の最後のブログになって、気がつきました!「アレ?今年ってまだ即身仏様の事、書いてないや…」って(笑)。という訳で、今年の最後のブログは、即身仏 宥貞法印の事にしたいと思います。宥貞法印さまは、”わが身を留めて薬師如来たらん”と遺言して、即身仏になられた方で… 


 福島県石川郡浅川町の貫秀寺に祀られていて、ここへ初めて行った時、かなり迷いながら行ったのを、よく覚えています。周りは全部と言っていいほど、田んぼのど真ん中にあるから、下手すると見逃す可能性も高いんですよ…。この貫秀寺、曹洞宗通幻派の寺院なのですが、宥貞法印は、真言宗のお坊さんなんで、ちょっと違和感ありますよね?実は、本来貫秀寺から1キロ離れた東永山観音寺という真言宗のお寺に祀られていたのですが、宥貞法印没後206年目の明治22年(1889年)、観音寺は浅川を襲った大火で焼失し、宥貞さんだけは、村人たちの手によって、運び出され、貫秀寺に安置されたようで…観音寺は再建される事なく、廃寺になってしまったそうです。 
 今も貫秀寺に保存されている「権大僧都宥貞法印行状記」という観音寺住職・清海が天明6年(1786年)に書き残した文章によると、宥貞法印、俗名は近松宗右ェ門治久。出雲国松江村郷土、近松右ェ門入道安利の嫡男として、天正19年(1591年)に生まれた。幼名、貞作。慶長19年(1614年)、23歳にして、讃岐国那珂郡小松荘松尾寺の住職・宥昌の弟子となり出家。宥貞と名乗る。豊臣秀吉の時代から徳川家康の時代にかけての事。 
 
 4年後、師・宥昌が死去。宥貞、諸国行脚に出立。時に27歳。奥州、北陸を経て高野山で修行を積み、小僧都の位を得る。江戸に下って、深川・永代寺の住職に着任。権大僧都に昇格。寛永8(1631)年、赤井岳に籠り修行を積み、棚倉町観音寺を経て大草観音堂に。この観音堂で23年を過ごした後、いよいよ浅川町の観音寺にやって来た。浅川町では、村人の願いを受けて加持祈祷を生業としていたようで…。 
 
 その入定は、天和3(1683)年12月23日。入定に先立ち12月8日、観音寺住職を弟子の宥林に譲り、薬師如来大祭を開催。村人たちを集め「薬師如来十二大願」を説法。「薬師如来十二大願」とは、薬師如来が悟りを開く前に、人々の病気を治し長命させようとして立てた十二の誓いの事。この頃、浅川町一帯では、悪疫が流行っていて、法印は自ら薬師如来にならん!と悪疫退散を祈願しての即身成仏だったと伝えられている。 
 説法は夜半におよび、衣を整えて浄髪沐浴、いよいよ、石棺に入り、21日後に死ぬ事を予言して入っていったのだけど、15日後にはすでにこの世の人ではなかったようだ…。享年92歳。 
 
 実は、宥貞法印薬師如来になるため、薬師如来の1メートルほどの大きな石仏を造り、下に1メートルほどの高さの棺を造り入定していて、今でも貫秀寺には、その棺も石仏も残されている。 
 
 浅川町は、昔農村らしい信仰があったようで、貫秀寺にある大般若経六百巻が、経箱だけで、中身がないのは、大半は村人たちに飲まれてしまったという…経典の功徳を信じてのものでしょうけど、法印の衣も大半飲まれたとされていて、少し怖いですわ…。 
 
 薬師如来になるために即身仏になった宥貞法印、以前紹介した本明海上人と同じ年に即身仏となっていて、何かつながりあったのかも知れませんね? 
 
 マニアックなコラム好きな方は、ここまで読んでくれた事と思います。一年に一回は、即身仏さまの事書いて行く所存です。 
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タリズマン・マスター
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1995年から、この伊達市に、占いスペースを開き、運命アドバイザーとして占いをおこなっています。  
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