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[2018.06.26]
■シャーマン・コレクション
札幌の北海道立近代美術館で「ブリヂストン美術館」展が開かれていた。先日、伊達市民カレッジのイベントでここを訪れた。道立近代美術館とそばにある三岸好太郎美術館の2つの美術館に多くの作品が展示されていた。この付近は緑が豊かだった。  



教科書や雑誌で見たことのある、ルノワールの「シャルパンティエ嬢」、藤島武二の「黒扇」、アンリ・マティスの「縞ジャケット」、ポール・セザンヌの「サント・ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」、青木繁の「海の幸」(大きな魚を裸体の人々がかついでいく横長の絵)、クロード・モネの「睡蓮」、モディリアーニの「若い農夫」、藤田嗣治の「猫のいる静物」など多くの有名作品があった。ブリヂストン美術館は、大した作品を持っているものだと感じ入った。東京京橋のブリヂストン美術館がちょうど建て替え工事に入っている時期なので、多くの収蔵品が北海道に来てくれて、我々は見ることができた。一点一点をじっくり見て行こうとすると、終日かかるかもしれない。そんな時間はなかったので、さあっと見て行ったのだが、それにしてもこれらの絵を見ていると、絵とは無限の色合いや構図や線の描きようがあると感じた。いろいろなことを自由に試してもいいんだよ、と云ってもらったように感じた。絵とはかくも自由に無限の描きようがあるものだ。  
この展覧会と同時に「シャーマン・コレクション」展が開かれていた。数奇なことにシャーマン・コレクションは現在、伊達市が寄託を受け、噴火湾文化研究所というところでお預かりしている作品群である。今回その一部が、道立近代美術館で公開された。  
今回、美術館巡りの前に道立近代美術館の学芸員西田さんから、フランク・シャーマンという人はどんな人だったのか、またコレクションの内容とその成り立ちなどについてレクチャーを受けた。  
フランク・シャーマン(1917~1991)は、1917年にボストンの比較的良い環境の家庭に、10人兄姉の末っ子として生まれる。ボストン美術学校などで、美術と印刷技術に関することを学んだことが、後年、デザイン、美術教育、印刷などアート分野の幅広い仕事に携わっていくことにつながる。  
太平洋戦争終戦後の1945年にGHQ(占領軍総司令部)の印刷・出版担当者として日本を訪れた。当時板橋区にあった凸版(とっぱん)印刷内に彼のオフィスは設けられ、ここでアメリカ兵向けの情報雑誌YANK TOKYO EDITIONなどの編集に携わる。  
1954年からは、アーニー・パイル・シアター(ERNIE PYLE THEATRE)(現宝塚劇場)でのジャズ公演などの広報を担当する。  
この間、多くの日本人芸術家との交流があった。特に藤田嗣治(ふじたつぐはる)とは深い友情で結ばれ、また藤田を通じて多くの画家などとの交流が生まれた。この交流を通じて、画家たちから寄贈されたもの、自身で購入したものなど、絵画、手紙、写真(彼は写真を趣味として、戦後の日本の風景をよく収めた)、蔵書、切手、版画を収集していった。これらは、絵画390点余りを含む総数約5000点に及ぶコレクションとなっている。  
ここに晩年にシャーマンと関わりをもった方として、河村泳静が登場する。1970年代の後半、河村はソウルの大学に留学中に、当時ソウルの高級マンションに在住していたシャーマンとたまたま知り合った。韓国語と日本語と英語の通訳などを通じてシャーマンとの交流を深めていった。1991年に病床の人となったシャーマンには家族などの身寄りがなく、コレクションのすべてを河村に託して息を引き取った。  
リアリズム絵画の第一人者野田弘志は、伊達に在住しながら、後進の育成のための絵画教室を主宰している。野田と親交のあった河村は、「絵画教室で学ぶ子供や若い人達、そして市民の方々に、遠い場所に出かけずとも、質の高い芸術作品に触れて欲しい」と申し出た。この申し出を受けた野田を介して、シャーマンのコレクションは伊達市で預かることになったというのが経緯のようである。  
シャーマンが凸版印刷の中にオフィスを構えていた頃は、ここは一種芸術家のサロンとなっていた。戦後の食糧事情の乏しい中、シャーマンは酒食の提供をして、ここは芸術家たちの語らいの場となっていった。そんな中でのエピソードとして、シャーマンルームでは、台所がむき出しになっていたので、ここに屏風を建てようと藤田が提案した。藤田が金屏風に二体の裸婦像を描いた作品が台所を隠した。シャーマンは、この金屏風はわたしのオフィスを豪華に変身させたと述懐している。この作品は、残念ながら現在のシャーマン・コレクションには含まれていない。箱根のポーラ美術館の所蔵となっているとのことだ。  
猪熊弦一郎(いのくまげんいちろう)もシャーマンサロンの仲間だった画家で、パリの街角を描いた素敵な作品を残してくれている。木版画の小品「S FUMI Guén」では、小さくイニシャルを入れてある。SはSHERMANの頭文字,Fは奥さんのふみ子の頭文字、Guénは弦一郎を示している。それほど親しい間柄であったのだろう。後に猪熊夫妻はニューヨークに滞在したが、当時米国を訪れる日本人たちの社交場“フミレストラン”を開き、ここで多くの芸術家がお世話になった。ふみ子夫人の手料理と夫妻の暖かいもてなしを受けた人は、棟方志功夫妻、荻須高徳、イサム・ノグチなどたくさんいる。  
今回展示されていた絵の中に、向井潤吉の「白川村の民家」がある。向井が得意とするかやぶき屋根の日本人の郷愁を誘う絵である。向井潤吉は日本の田舎の風景を描かせたら第一人者で、人気があり、美術館が世田谷にある。  
 
「ブリヂストン美術館」展の話に戻る。三岸好太郎美術館の2階展示室を見ている時であった。中年の女性ボランティアガイドの方が、「よろしかったら、絵の説明をさせていただきますが」と声掛けをしてくれて、何人かの方が集まってきた。いくつかの絵の前で、その絵を描いたときの作者の状況や時代背景、どんな画家の影響を受けているのかなどの話をしてくれた。ただ漫然と絵の前を通り過ぎることがあるが、絵の背景を知ると、画家の様々な思いが絵にこもっていることが分かる。  
来春に“伊達歴史文化ミュージアム”が開かれ、シャーマン・コレクションの絵などが公開されるとも聞く。訪れる人々に、これらコレクションのことを説明するガイドがいたら、いいなと思う。その絵のこと、画家のこと、フランク・シャーマンのこと、シャーマンと画家の交流のこと、シャーマンが来日したころの日本の様子など、絵の背景にあることを勉強して観客に伝えられたら、見る人の心に残ることが多くなるだろう。そういうボランティアガイドを育成するためには、それなりのレクチャーが必要であり、準備期間が必要だ。そんな準備も合わせて行ってもらえると素晴らしいと思うのだが。ガイドは人前でしゃべるため、なかなか勇気のいることだが、一方で自分の勉強にもなる。  
三岸好太郎美術館は、北海道知事公館の建物がある森の中の一隅にある。この帰り道に、知事公館の建物を見に行った。そのそばに“残響”という村橋久成の胸像がある。村橋久成については以前に何度か触れているが、サッポロビールの前身である開拓使麦酒醸造所を立ち上げた人として知られる。薩摩藩の若い武士だった頃に、“サツマスチューデント”として英国に留学し、戻って幕末の戊辰戦争に参加して、箱館まで来る。箱館病院での幕府軍側傷病兵への無益な殺生を防ぎ、また薩軍黒田清隆の意を受け、五稜郭にこもる榎本武揚に降伏を勧める軍使にたつ。いずれの場面でも薩軍のリーダーとして清々しさを感じる人であった。以前この人の像が知事公館の庭に出来たことを知り、そのことを思い出し、今回会ってきた。北海道に縁のあった人であったなあ、と改めて思った。  
◆参考資料  
・フランク・シャーマン コレクション選 伊達市教育委員会  
・挿絵 札幌 知事公館の庭  
(2018-6-24記) 
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2007年に横浜から夫婦で移住。趣味は自然観察/山登り、そしてスケッチやエッセーを書く・・・ 
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