■釧路紀行
釧路の町を訪れた。
道南の伊達に住んでみると道東は遠い。感覚としたら、本州から女満別空港に降りて、レンタカーで網走など道東を巡る方が楽に感じる。
伊達から釧路までは、陸路373km。ほぼ東を目指して北海道を横断する。370kmという距離は、東京を起点とすると西は名古屋(348km)のちょっと先、北は仙台(370km)までと同じになる。
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1950年代の釧路風景
北海道も高速道が伸びたので、伊達から釧路の手前の阿寒までは高速道に乗って行ける。阿寒で降りて釧路の町までは一般道を走って小1時間で行けるようになった。自分で運転できる間に出来るだけ道内各地を訪れてみたいと思い、その初めに釧路に行ってみようということになった。
釧路駅から南に伸びる大通りを1kmくらい下ると、釧路川をまたぐ幣舞橋(ぬさまいばし)がある。釧路を代表する大きな橋で、かつての豊かな釧路を象徴している。片側3車線づつ6車線の車道と両側に幅広い歩道があり、橋全体の幅は33mと大きい。橋の始まり部分はオベリスク(大理石の石塔)で形作られ、橋の上には4体の四季を表す女性像が建っている。釧路川の河口に位置し、西側の太平洋に沈む夕陽が美しい場所として知られる。現在の橋は5代目の橋だそうだ。橋を渡った南側は小高い丘になっていて、NHK釧路放送局があり、ときどきTV北海道版でこの放送局から幣舞橋方向を映し出す風景が流れて、北海道民には馴染みのある場所である。
幣舞橋とは何かいわくがありそうな名前ではないか。
アイヌ語の「ヌサ・オ・マイ」(幣場のあるところ:幣場とは、神を祀るためのイナウ⦅木幣⦆を立てて並べて祭祀などの儀式を行う場所)に由来しているという。その美しさも評価されて、札幌の豊平橋、旭川の旭橋とともに北海道の三大名橋といわれる。
かつての釧路は、北洋漁業の基地であり、太平洋炭鉱が一大産炭地として多くの石炭を産出し、またパルプ・製紙業が盛んであった。また雪印乳業の工場があり乳製品も作られていた。これらの産業が盛んで人口も多く、経済も活況を呈していた。日本銀行釧路支店が置かれたのは昭和27年(1952年)であり、函館支店、札幌支店につぐもので、道東の経済の中心を担うものである。今回挿絵には、1950年代の幣前橋風景を描いたが、橋を渡った左側にある白い角型の建物が日銀釧路支店である。
近くにお住いの大学の大先輩O先生は、若い頃釧路の病院に出張で出かけた経験がある。昭和30年頃の話である。釧路市立病院の小児科を担当されていたある先生が、市内で開業することになり、小児科担当が空席になった。次の担当医が決まるまでの間、札幌から出張者で対応することになり、初めにO先生が出かけることになった。晩秋から冬にかけての時期であった。当時の釧路は、石炭、製紙、パルプ、漁業などの産業が活況を呈していた時代で、町には活気があった。
先生の勤務された市立病院は、幣舞橋を南に渡った丘の上にあり、宿舎は病院のそばの一軒家が充てられた。仕事を終わって宿舎に戻ると、下の幣舞橋の周辺の灯りが見える。灯りに誘われるように坂を下り、橋を渡った北側にあった飲み屋さん街に通った思い出がある。夕方の灯は人を呼び寄せるものがある。
或る日、宿舎の玄関前にどーんと石炭が置かれている。
しかも塊炭(かいたん:大きな石炭の塊で4cm以上のもの、燃え付きがよい)である。当時一般家庭では、もっと小さな(粉炭だろうか?)燃え付きの悪い石炭を使っていた。どうも、以前健診で子供を診てもらったお礼にと親ごさんが届けてくれたものだったようだ。何とも景気の良い時代の話である。
当時の釧路は道東の一大拠点であり、釧路市立病院には日に100人くらいの小児科の患者さんが来ていた。遠くは網走や根室からもやってきた。遠くて通院ができない子供たちは、入院してもらっていた。先生はちょうどクリスマスの前に一度、札幌に報告で戻ったことがあった。入院している子供たちに札幌の町でクリスマスプレゼントをもとめて戻った。子供たちがとても喜んでくれた思い出もある。
O先生の後を受けて2か月ほど出張されたのは、T先生であった。お酒好きのT先生は、給料・出張手当をほとんど飲んで、釧路に落として来たそうだ。T先生が札幌に戻るとき、夜行列車急行「まりも」のホームには、大勢の飲み屋やバーのマダムたちが、餞別にとウイスキーを持って見送りに来てくれたそうだ。華やかかりしときの情景ですなあ。
次に引用させてもらうのも古き良き時代の釧路の光景の一コマ。
キャバレー「ニュー東宝」は夜の社交場であった。ホールのドアを開けると耳をつんざくばかりのバンドの大音響と、まばゆい照明のもとに繰り広げられるホステスとのダンス。サラリーマンに混じって、ゴム長をはき、タオル地の手ぬぐいを頭に巻いて、札束で腹巻を膨らませた漁師のお兄さんが堂々と踊っていた。漁師さんは大もてにもてたんだそうです。焼き鳥屋台のおばさんなどに思い出話を聞くと、そういうお兄さんが来たら、一週間店を休んでもよいくらい潤ったといいます。(この項、「釧路街並み今・昔」永田秀郎著)
釧路に滞在した5月中旬は寒い日であった。食事に町中に出た夜には5~6℃になり冬のコートや手袋をしていた。炉端焼きのお店で、かきやつぶの焼き物、お刺身などのつまみで一杯飲んだ。生ビールの後に、地元のお酒「福司(ふくつかさ)」しぼり立てをいただいたが、これは美味しいお酒であった。地元のお酒を地元の肴で飲むから余計美味しく感じられるのかもしれない。後でネットで調べてみたが、1月頃の売り出しで、もう売り切れてないことが分かった。
お店で支払いの時にもらったアンケート用紙の裏側に、面白い情報があったので紹介する。
釧路管内の難読地名クイズである。
・昆布森 こんぶもり 昆布の海
・十町瀬 とまちせ エンゴサクが広く群生しているところ
・又飯時 またいとき 海の瀬の荒いところ
・来止臥 きとうし きと(祈祷)びるの群生しているところ
・浦雲泊 ぽんとまり 舟がかりが出来る小さな入江
・跡永賀 あとえか 昔海であったところ
・冬窓床 ぷいま 海に中に立っている岩
・入境学 にこまない 川尻に流木の集まる川
・去来牛 さるきうし 葦(よし)の群生しているところ
・初無敵 そんてき 沼であるような
・賤夫向 せきねっぷ 樹木の少ない山で、石落ちるところ
・分遣瀬 わかちゃらせ 水が滝となって落ちているところ
・老者舞 おしゃまっぷ 川尻に倉の形をした岩山があるところ
わたしは初めて見る地名ばかりで全く読めなかった。キャッシャーの女の子は地元の人だったが「わたしも半分以上読めません!」と云っていた。
釧路といえば、石川啄木の足跡が残る。啄木が釧路に来たのは明治41年1月21日で、釧路に滞在したのはわずか76日間といわれる。釧路新聞社に勤め、この町の印象を詩歌に多く残していった。啄木が釧路を去るときに詠んだ詩は、
神のごと 遠く姿をあらはせる
阿寒の山の 雪のあけぼの
さらに釧路というと原田康子の「挽歌」を思い出す。1956年に出版されるとベストセラーとなり、やがて映画化もされた。学生時代に読んだ記憶がある。最近では、釧路市出身の桜木柴乃が2013年に「ホテルローヤル」で直木賞を受賞した。彼女は中学生の頃に原田康子の挽歌の文庫本に接した。自分が住む町が小説の活動舞台になり、普段の街並みが作家の目を通すとこのように活き活きと描かれるのかと気づき、それが文学を志すきっかけとなったという。
来年2018年に北海道は、この名に命名されてから150年の節目を迎える。
松浦武四郎は、幕末に何度も蝦夷地を訪れた探検家であり、当時の蝦夷地の状況を克明に記録に残した人として知られる。明治になって北海道の名付け親にもなり北海道開拓についての献策も多い。
釧路市幣舞公園にある彼の像の台座に刻まれた碑文に彼の功績が簡潔に記されている。
*北海道及び釧路の名付け親、松浦武四郎は幕末に未開の蝦夷地探検の急務を説き一身を賭して苦難と闘いアイヌ民族の協力を得て東西蝦夷地山川地理取調等蝦夷地開拓計画の基礎資料を作成し為政者に供して諸種の献策を行いその促進をはかる。安政5年(1858年)阿寒国立公園地帯を探査して久摺(クスリ:釧路の旧名)日誌を記述せしより百年目にあたりクスリ酋長メンカクシの砦跡たりしサウシチャシコツに像を建て北海道開発先駆者阿寒の父として永えに顕彰せんとするものである。昭和33年(1958年)阿寒国立観光協会*
アイヌの人々を愛し、彼らの協力で精力的に北海道を調査し、明治の初めに「北海道(北加伊道)」の名付け親になった。「カイ」という言葉には、アイヌ語で「この地に生まれたもの」という意味があるという。「ホッカイドウ」という言葉にはアイヌの人々への感謝の思いが込められているのかもしれない。
◆釧路を訪れたのは、2017年5月14,15日である。
(2017-6-13記)