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[2016.09.27]
■雨宮21号 白滝ジオパーク
白滝ジオパークを訪れて、北海道に5つあるジオパークの関係者が一堂に会する交流会が催された。白滝ジオパークは遠軽町にある。遠軽町は道東のオホーツク沿岸から少し山側に入った町である。現在白滝地区、丸瀬布(まるせっぷ)地区がいっしょになり、日本で二番目に大きい町になった。  



ちなみに一番大きな町は足寄町(あしょろちょう)で、香川県に匹敵する面積を有する。  
白滝ジオパークで一番有名なのは“黒曜石”である。この地域は220万年前の火山活動で噴出した溶岩から黒曜石が豊富に得られた。約2万年前ころに旧石器時代の人々が、ここの黒曜石から鋭利な刃物を作り、狩りや生活の場でたくさん利用した。黒曜石はどこでも産出するものではなかったので、白滝の黒曜石は北はサハリン、東はクナシリ、シコタン、南は山形県・新潟県まで流通した。先史時代の人々も白滝に赴いたのか、あるいは物の交流の中で伝わっていった。便利な刃物となる素材を重宝に思っていたのだろう。遠い過去の地球の活動からできた黒曜石が、大いなる時間を経た後に人類の生活に役立ったといえるだろう。  
白滝の“石器工場”で作られた尖頭器、削器、錐形石器などは一部が国の重要文化財に指定され、白滝ジオパーク交流センターに展示されている。  
初日に白滝ジオパークの方から、ここに黒曜石が生まれてきた由来や石器についての詳しい説明を聞き、黒曜石の塊から石器を作る実演を見せていただいた。これはなかなか感動モノだった。初めに寸劇の振りで、御茶ノ水博士のようなかっこうの学芸員の方が登場して、タイムマシーンに乗って旧石器時代の石器作り名人“セ・シモ”さんを現代に連れて来た。“セ・シモ”さんは、わたしたちの前で黒曜石のブロックを石や鹿の角、木の棒などを用いてたたき割りながら木の葉型の鋭利な石器を作って見せてくれた。これはなかなかの業であった。ここまで出来る人は、ほとんどいないらしい。“セ・シモ”さんは、後で小型ナイフ様の石器で、魚のそいを三枚にさばいてくれて、わたしたちはそのお刺身をいただいた。みごとな切れ味だった。先史時代の人もお刺身を食べていたのかなと思ってしまう。刺身とくればお酒だろう。きっと太古から酒はあっただろう。穀物を口で噛みくだいて醸したり、果実などの自然発酵で作った酒はあっただろう。酒と刺身があれば、時空を超えて現代を垣間見た“セ・シモ”さんは、醤油を旧石器時代に持ち帰りたかったのではないかと想像してしまう。  
 
翌日は、2つのコースに分かれてのツアーとなった。わたしは丸瀬布コースに参加した。  
丸瀬布森林公園いこいの森には、かつて森林鉄道として活躍した「雨宮21号」が動態保存されている。  
森林公園いこいの森のあたりは、先月北海道を立て続けに襲った台風のため水害を被っていた。そばを流れる湧別川が多量の雨で氾濫して、土砂や流木が流れ来て、バンガローなどの施設が水に浸かり、「雨宮21号」が運転されていた一周2kmの軌道の道床も被害を受けた。このため8の字形の一周路線は現在回復していないが、今回わたしたちが訪れたときには地元の方々の努力で、一部区間の往復運転ができるレベルまで修復されていた。  
 
いただいた資料から森林鉄道蒸気機関車「雨宮21号」の歴史を振り返ってみる。  
*森林鉄道は一般的には「官行(かんこう)の汽車」と呼ばれていたが、いつしかそれが詰まって「カンコの汽車」と呼ばれるようになり、「ポーッ」という汽笛とともに、国が行う造材事業である官行斫伐(かんこうしゃくばつ)のシンボルかつ住民生活の足となり、木材のまち丸瀬布の風物詩になった。  
北海道内における森林鉄道機関車は、昭和2年までは全て外国製の車両を輸入しており、アメリカ製のボールドウィン(10t車)とドイツ製のアーサーコッペル(10t,5t車)のみであったが、昭和3年に丸瀬布の武利意(ムリイ)森林鉄道が初めて国産の雨宮号(10t車)3台を導入した。雨宮号が木材などの輸送を開始したのは昭和3年からである。  
森林鉄道は当初夏季だけの運行であったが、太平洋戦争が始まると木材増産のため機関車に排雪板を付け、通年輸送体制がとられるようになった。  
雨宮号は、明治・大正期に日本の私鉄王といわれた雨宮敬次郎が経営した、東京深川区の雨宮製作所で製造された。  
この機関車は、台湾の植民地鉄道用に向けられたワルシャート型(15t車)が原型で、北海道庁からの委託により、雨宮製作所の主任技師が国鉄と同じレール幅の1067mmの機関車を森林鉄道向けの762mmに設計しなおし、製造されたものといわれている。車体や線路幅を小さくすることによって、山奥まで沢をぬっての線路を作ることができる。  
戦後も森林鉄道として活躍していた雨宮21号も、ディーデル車に取って代わられ、やがて森林鉄道自体も昭和38年3月末に廃止されることになった。  
それを少し遡る昭和31年に、丸瀬布の青年たちの集まり「山賊会」で「官行の汽車がなくなるぞ!」ということが話題になった。「機関車がスクラップにされそうだ。何とか救いたい。」ということで青年たちは10万円の寄付を集めた。しかし機関車を保存、維持管理するには多額の費用がかかることが分かり、当時の丸瀬布町や営林署に協力を要請した。多くの方々の努力の結果、営林署での保存が決定した。  
時が流れて昭和44年に営林署より「林野庁が、雨宮号を群馬県の沼田に建設した林業技術センターに移管することになった。」と通知が入り、すでに内定しているとのことであった。町は郷土史研究会などと協議を行い、貴重な歴史資料である雨宮号の保存のため、陳情、移管反対の署名運動を展開した。この間、網走地方史研究協議会、北海道史研究協議会も加わり移管反対決議を可決して、北海道営林局、林野庁に文書による要請も行った。  
これらの行動が効を奏し、林野庁も移管を断念し、雨宮号は丸瀬布の地に残った。しかし代替に置戸営林署に保存されていた「ボールドウィン旧1号」が引き上げられた。  
 
 
丸瀬布町では、大切に保存していた雨宮号を札幌で復元・整備を行い、昭和54年5月15日に、いこいの森に新設された機関庫に格納して、翌16日に22年ぶりに試運転をした。  
その後、雨宮号が引く客車や貨車を購入し、また8の字形の一周2kmの軌道が完成して、昭和57年5月1日から森林公園いこいの森で運行されている。*  
わたしたちが乗ったときは、明るい緑色と黄色に塗られた客車を引っ張っていた。この客車は以前に西武山口線(東村山市―所沢市)を走っていたもので、購入して色を塗り替えたそうだ。軌道幅が小さい分客車の中もこじんまりしているが、人と人の距離が縮まる感じがした。客車の中は満員で、デッキには子供が出て、うれしそうな顔をしていた。  
 
2枚目の挿絵は、JR北海道の車内誌(やや記憶が不確かながら)に紹介されていたものを2年前にスケッチした。北海道に、かつて森林鉄道で活躍した蒸気機関車が動態保存されていることを知った。この絵では、普通の客車とオープンな貨車のような車両、さらに丸太を積んだ貨車を引っ張っていた。かつて森の材木を運んでいたことが偲ばれる。  
今回丸瀬布のいこいの森を訪れて、雨宮21号に乗ることができた。2年前に描いた機関車の実物に再会した思いだ。  
 
雨宮21号は、今年で生まれて88年になる。米寿を迎えて元気に丸瀬布の森を走り、ここを訪れた人々に、かつて森林鉄道で活躍した時の雄姿を伝えている。  
「おたがいに 元気でいようね 雨宮号」  
 
◆参考資料など  
・遠軽高校 現地体験学習会資料「森林鉄道と丸瀬布の林業 人と未来とSL雨宮21号」  
・森林鉄道蒸気機関車「雨宮21号」保存の歴史  
・白滝ジオパーク紹介パンフレット  
・「ジオパークへ行こう!」ガイドブック  
・北海道のジオパークは、現在5つある。白滝ジオパーク、とかち鹿追ジオパーク、三笠ジオパーク、アポイ岳ジオパーク、そしてわたしたちの地域の洞爺湖有珠山ジオパークである。  
白滝ジオパークを訪問したのは、2016年9月17,18日であった。  
(2016-9-21記) 
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プロフィール
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2007年に横浜から夫婦で移住。趣味は自然観察/山登り、そしてスケッチやエッセーを書く・・・ 
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