伊達市地域生活情報マガジン『むしゃなび』へ ブログ★むしゃなび トップへ [今日:2] [昨日:0] [1372] rss feed
[2016.01.18]
■飯田誠一さんのこと
有珠山の北側に四十三山(よそみやま)と呼ばれる地域がある。こんもりとした丘状の山でこの山頂からは洞爺湖や羊蹄山が望めるのだが、いまは木々が繁ってその間から望むことになる。 



四十三山は有珠山の明治噴火(1910年、明治43年)のときに盛り上がって出来た山である。明治43年なので“四十三山”と云われたが明治新山という正式名称もある。下からマグマで押し上げられた山で、マグマは地上には出ていない。このような山は潜在ドームと呼ばれ、有珠山の全域には太古からの潜在ドームが多く存在する。有珠山は太古からの火山活動であちこちに盛り上がりのあるぼこぼこした山なのである。これを空中から見ると、たくさんの珠が連なって見えるようで、“珠有り”が“有珠”と充てられたのではという話もある。 
 
この有珠山の明治噴火の時に、近隣の住民15000人を事前に避難させた人のことを語ろうと思う。 
飯田誠一さんという。当時室蘭警察署長だった。 
飯田さんが当時まとめた報告書、日記、また今村明恒博士に語ったことなどがベース資料である。 
今村博士が飯田さんから直接聞いたことを整理した概要は、 
・爆発予知に関する基礎知識は大森博士の書き物から拾い取った。 
・いよいよ爆発するらしいとの確信を得て、住民に対し、山の三里外へ立ち退くよう強制命令を発したのは爆発二昼夜前であって、執行を終わったのは一日前である。 
・有珠山を中心とする三里以内の距離には、当時、およそ三千戸に15000人の住民がいた。 
・居住民の中には、立ち退きに反対するものあり、反抗の気勢を示すものすらあった。 
・わたしは、もしわたしの所信が誤りであって、爆発なしに事が終わったら、いさぎよくその責任を負うべく悲壮な決心をしていた。 
・この強制執行については、あらかじめ上司へ報告してその許可を受ける余裕がなく、まったく独断専行でやった。 
・上司からは何のおとがめもなく、また、お褒めもなかった。 
・事終わって、居住民からは感謝された。決死の覚悟までしていたわたしは、彼らの真剣な感謝によって報いられたと思った。 
これを聞かれた今村博士の感想(昭和9年7月にまとめ)が、「地震の国」(文芸春秋新社、1949年5月30日発行)に述べられている。 
飯田氏の実験談は、われわれに対していろいろな教訓を与える。あの悲壮な決心、それは熟慮のうえの断行にあったにちがいなく、そのときの心事は、高陞号(こうしょうごう)撃沈の際における東郷艦長のそれと同じであったろう。ここに貴き教訓として、何人にも適用さるべきものがあろうが、余は、地震や火山の学徒たるわれわれにとって、特に二つの偉大な教訓の含まれていることを指摘してみたい。 
一、 飯田さんを真似ようと思う輩は、これも確実な根拠に立ち、熟慮に熟慮を重ねたうえに決行すべきであるが、もし自己の判断が失敗に帰した場合には、死をも辞せざる覚悟を必要とすること。 
余はこの機会において、殊に力説しておきたいことがある。それは危機すでに迫るに 
かかわらず、これを気づかないのみか、かえって薄弱な根拠のもとに、他人にまでも 
楽観をすすめ安心を強いるような言辞を弄したならば、その責任の重大さは前者の比 
ではないことである。危機の推断が失敗に終わった場合の損害はむしろ軽く、楽観に 
失敗した損失は取り返しのつかぬことになることを思わなくてはならぬ。 
二、 飯田さんを真似てさいわいにそれが成功しても、公に推賞されようなどと期待してはならぬこと。これはわが国のごとく、国民が一般に学問に無関心なうえに、為政家もまた学術上の功績を表彰することを心がけぬ国においてそうである。ただ学徒としては、国家社会・人道のため善事をつくし得たらば、それでよいのである。 
 
有珠山明治噴火があった1910年から、今村博士が飯田さんと会った時の感想をまとめた1934年(昭和9年)までの間にも、日本の火山の歴史の中でも特筆される出来事があった。 
1914年(大正3年)1月12日に起きた桜島の大噴火である。噴火の数日前から強い地震が続き、住民は測候所に噴火の危険を問い合わせたが、「噴火はない」との返答であった。そして大噴火が起きて、逃げ遅れた人々140人が死傷する大惨事となった。 
10年後に住民は、この惨事を長く記憶に留めるために噴火記念碑を建て、碑文に「(前略)住民ハ理論ニ信頼セス異変ヲ認知スル時ハ未然ニ避難ノ用意尤モ肝要トシ(後略)」と刻んだ。すなわち、「科学を信頼しては駄目だ。自ら異変を感じたら自らの判断ですぐ逃げろ」と科学に対する不信を突きつけた。 
そういう出来事もあったので、今村博士は、飯田署長の避難判断をより尊いものにも感じ、また実施することの困難さをも感じられただろう。今村博士の感想にはそんな思いがにじんでいるようだ。 
今村博士は東大地震学教室の助教授であった明治38年、雑誌「太陽」に「今後50年以内に関東地方に大地震が発生する可能性が大」であるので「住宅の補強や石油ランプから電灯への切り替え」などを進めて、防災に努めるべきであるという、減災を主眼とする論文を発表した。しかし、その4ヵ月後、東京二六新聞は、今村が主眼とした防災対策は取り上げずに、大地震襲来のみを大きく扱った記事を掲載した。この結果世の中は大パニックを起こし、その収拾に東大地震学教室の主任教授であった大森教授は「今村の説は浮説で大地震は起きない」と云わざるを得なかった。一時今村は「大ぼら吹き」の汚名を着せられた。それから18年後に関東大震災は起きてしまった。 
今村自身が自然災害の予告の難しさを実体験を通して知っていたのだろう。 
 
余談である。 
今村博士は「飯田さんの決断は、高陞号(こうしょうごう)撃沈の際における東郷艦長のそれと同じであったろう」と述べている。 
高陞号事件は、1894年(明治27年)の日清戦争が始まった時、豊島沖海戦での出来事である。大型汽船高陞号は英国のジャーデン・マジソン・カンパニーから雇いいれられたもので、清国の陸兵1100人と武器を搭載して牙山上陸を目指しているところであった。英国人の船長、船員が操舵していた。巡洋艦浪速の東郷平八郎艦長は、清国兵を確認したので停船、投錨を指示し、ボートで士官を派遣して2時間半にわたり交渉を繰り返したが、結局清国兵が船内で反乱を起こし収拾がつかなかった。東郷は危険を知らせる赤旗を掲げさせて最後通牒を送ったのち、撃沈の命令を下した。事件後英国内では一時日本非難の渦が巻いたが、その後東郷の処置が国際法に法ったもので問題がなかったと分かると沈静化した。 
一艦の艦長はときに国を代表する立場をとると云われる。撃沈命令を下すまでの東郷の心の葛藤を慮っての感想だろう。 
 
飯田さんが火山に関心を寄せるきっかけは、1902年(明治35年)の小笠原諸島鳥島での火山爆発、島民全滅の出来事であった。このとき調査に行かれた大森房吉博士のレポートを雑誌にて読んだ。 
そのレポートでは、「日本は火山国で古来幾多の火山爆発があり、人命その他の災害が多い。その爆発ではいつも前兆を伴う。そこでその前兆を見出した時に避難すれば、大概その災害を免れるはずだ。それが出来ていなく不幸に遭遇してしまう。今後、内務行政の力、すなわち警察力をもって強制することが必要であろう」という意味のことが書かれていて、深く感動した。 
警察官としての職分は、「人命救護を使命として、その人為たると天災たるとは問わず、不可抗力以外のことは、人命に関する限り天災といえども予防に努めるべきだ」と考えた。 
北海道に勤務していた10有余年、この信念の基、災害や予防に関する書籍や雑誌等を読み続けていた。そんな折1909年(明治42年)樽前山の噴火があり、飯田さんは室蘭警察署長として勤務していた。苫小牧は室蘭警察の分署であり管轄下にあったため、出かけて山麓付近の住民の避難にあたった。天の配剤であろうか、有珠山の明治噴火はその翌年1910年に起きたので、樽前山の噴火避難の体験は、飯田さんにとって訓練の場を提供してもらったと云える。 
 
有珠山の噴火前後の飯田さんの日記、手帳の記録などをたどると、 
1910年7月22日(噴火の3日前)、飯田さんは、室蘭郊外の幌別鉱山に出張中にたびたびの地震を感じ、室蘭に戻った。室蘭は強震、弱震相次ぎ、さらに伊達方面は一相甚だしいと聞き、有珠山の噴火を直感した。火山に関する書籍雑誌を持って、伊達方面に向かった。 
伊達方面では一層震動が強く、遠雷のような鳴動も伴い、噴火を予断するようになった。 
7月23日、有珠山を中心とする三里以内の地区住民の避難を勧告する。ほとんどの住民は、恐怖のためすぐに立ち退きに従ったが、一部住民の中には、服しがたく「専門学者の到着を待って、その判断に従ったらどうか」という意見を述べるものもあった。飯田さんは、「いつ噴火するか分からない状態である。明日まで待って今日噴火したらどうしようもない」と持ってきた参考書を示しながら説得した。 
前兆について述べた個所がある。地震が起き始める3日前くらいから洞爺湖での漁獲が全くなくなったとのこと。 
また、飯田さんは大地が動揺する体験をしたときのことを語る。「身体が倒れそうになり、それに耐えつつ有珠山を見ると、山の全体すなわち大地草木土石が一時に波動して、その揺れの一高一低には真に悲しみに心が痛む思いがした。またその光景は眼底に残っている」 
7月25日、午後十時大鳴動起こり、三四十分経過して、ついに有珠岳北屏風山北西方湖畔床丹街地背後の金毘羅山に爆裂噴火口出現したり。 
7月26日、空沢に出現したる噴火口より熱湯に灰を混ぜたもの(熱泥流か?)流出する。 
7月27日、(噴火の場所が有珠山北麓に集中しており、他での噴火の可能性が低いとみたためか)大井上理学士の意見により、伊達本村の避難者全員の復帰、虻田本村では一家の責任者の復帰を実施した(避難解除の実施) 
7月29日、噴火の区域が一定してきたようだ。北屏風山の背面にて湖水から二三町隔たった位置で、東西一里東丸山から金毘羅山に至る範囲である。火口数は変動し一盛一衰、ある時は猛烈にして石を降らしまたは灰を飛ばし、泥流を流す等危険であり、近づけないので実数は調査できない。ただし、今日の状況から今後の変動はないだろうと推定して(大井上理学士の意見により)虻田本村、幌むい、向洞爺、壮瞥村、字洞爺の避難解除を行った。 
7月30日、爆裂の光景を見ようとして登山してくるものがいるので、道路の要所に「登山禁止」の掲示を行い、また巡査を配置して取締りを行う。(物見高く見物に来る人は、いつの世にもいるようですね) 
8月1日、弱震6回で著しい異常はないものの、噴煙は盛んで西丸山脇の噴火口より多量の泥流が湖水まで流出した。このため家屋一棟、付属建物二棟、樹木一千本が埋没して、畑地約三十町歩を損失した。 
8月3日、この日噴煙は六箇所から起こり、泥流は五箇所から流れ出た。泥流のうち大きなものは、幅二町深さ八尺に達して、四箇所の泥流は湖水まで達した。 
この日午後6時頃、室蘭の某は泥流を渡渉しようとして溺死した。立ち入り禁止の看板を無視して、かつ2名の巡査の二箇所での制止を欺いて危険地域に侵入しての事故であった。 
このことがあったので、益々観覧者(見物人)の警戒を厳にした。 
また飯田さんは、住民避難のときは少ない警察官で町村の見回り、盗難予防、火災予防に当たったが、この間一件の盗難もなかったことは非常時ではあるが痛快事としている。 
 
いまから100年以上前の話であるが、この地で勇気を振り絞って人命救助に自分の生涯をかけた方がいた。火山噴火の前に組織的に行政が動いて多くの人々を避難させたさきがけといえることであった。 
飯田誠一さん(1871~1952)は優れた行政能力をお持ちだったのだろう。室蘭警察署長を務めた後は、小樽市の助役や苫小牧町(当時)の町長、札幌円山の町長(その後札幌市に合併)を務められて行政の場で活躍されて、1952年8月に札幌で82歳の人生を閉じられた。 
 
◆飯田誠一さんの経歴 岡田弘先生の資料を参考にさせていただいた。 
「高陞号事件」については、「坂の上の雲」司馬遼太郎著を参考にさせていただいた。 
(2016-1-16記) 
▼トラックバック(0)
このエントリへのトラックバックURL:
現在トラックバックの受信を停止中です
▼コメント(0)

▼コメントを書く...
*必須入力です
 「コメント」欄は日本語で記入してください。
 英字数字のみだと、コメントと見なさず投稿できません。
※コメントは承認後に掲載されます。
*お名前:
メール:
URL:
*コメント:
プロフィール
mimi_hokkaido
mimi_hokkaido
2007年に横浜から夫婦で移住。趣味は自然観察/山登り、そしてスケッチやエッセーを書く・・・ 
好きなもの 
・散策 
・山行 
・サッカー 
・お酒 
・「坂の上の雲」 
洞爺湖有珠火山マイスターに認定されました。 
下記リンクものぞいてください  
ブログ検索