■戦後70年 昭和史のこと
ここ2年くらい昭和史のことを知りたくて、半藤一利さんの「幕末史」、「日露戦争史」、「昭和史」、保坂正康さんの「太平洋戦争を考えるヒント」などを読んでいる。
なかなか自分の思いを整理するところまで行かないのだが、多くの歴史的事実や歴史の変曲点での道選びに示唆されることが多い。
以下、読んだところで「そうだなあ!」と感じたところを引用させていただく。
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「日露戦争史1」半藤一利 このような一節がある。
*日露戦争での第3回旅順港閉塞作戦の頃の話である。
・・・消息を絶った兵が91名としたが、このうち傷を負って人事不省のまま、ロシア軍に収容されていた下士官兵に、小樽丸の7名と相模丸の9名があり、旅順開城後に日本側に引き取られた。東郷司令長官が無事に戻ってきた彼らを迎えて歌一首に詠んでいる。
勇ましく あだの港を塞ぎぬる 君のいさをは 千代もつきせじ
日露戦争時には、捕虜の汚名はなかったのがハッキリする。そのことを思うと、太平洋戦争下においてしきりに唱えられた「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱めをうけず」がもたらしたものが、なんと非情であったことか痛感させられる。幾多の有為の人が死ななくてもいい死をみずから死んでいかねばならなかった。
言葉というもの、それも口当たりのいい美文名文の恐ろしさをしみじみと思い知る。
明治軍人の理性的な他の一面。
旅順閉塞戦について、東郷は初め反対であった。生還を期し難い作戦というものはとるべきではないという立場であった。その後、充分な駆逐艦隊と水雷艇を伴う条件で許可する。
(中略)真珠湾攻撃のさい、特殊潜航艇の作戦参加を「十死零生の作戦というものはない」と最後の最後まで突っぱねていた山本五十六司令長官のきびしさについてである。つまりは、トップに立つものは、自分で生命を賭して責任を負うことができないことを部下に命令してはいけない、それが海軍のよき伝統というものであった、ということ。それなのに太平洋戦争末期には陸海競い合って、十死零生の特攻攻撃を指揮官たちがさも当然のごとく命じている。しかも戦い敗れて彼らは責任をとろうとしなかった。ただひとり責任を負って割腹して死んだ大西瀧治郎中将のいう「統率の外道」とはまさにこのことをいうのである。*
半藤さんはいう。幕末に日本は開国して、その後明治維新を経て欧米列強に並びたいと国づくりに邁進した。日清・日露の戦役に勝利して開国から40年で目指した国作りに何とかたどりついた。その後の昭和20年までの40年は国の進むべき道を誤り、父祖たちが作った国を滅ぼしてしまったのがこの国の歴史である。
司馬遼太郎も、昭和の頃の軍人の振る舞いは、明治の頃に国作りに邁進した日本人とまるで違う人種のようである、と述べている。統帥権干犯などという“魔法の杖”のような言葉を弄して軍部が政治に介入し国の道を誤らした。
日露戦争のとき海軍の名駆逐艦乗りであった鈴木貫太郎は、その後連合艦隊司令長官や海軍軍令部長などを務めて予備役に入り、昭和天皇の侍従長(天皇の相談役)に就任する。鈴木の妻たかは幼いころの昭和天皇の乳母を務めた人で、昭和天皇からみると鈴木夫妻は親にも思える間柄で、信任が厚かった。やがて鈴木は1936年(昭和11年)の二・二六事件に遭遇して瀕死の重傷を負うが一命を取り留めた。太平洋戦争も行き詰まった1945年(昭和20年)4月に昭和天皇からの強い要請があり、鈴木は内閣総理大臣に就任して終戦のとりまとめをすることになる。この就任のときも鈴木は「軍人は政治に絡むべきではない」という強い信念で就任を固辞したが、昭和天皇からの「もうお前しかまとめられるものはいないので頼む」という言葉で、最後のご奉公を務めた。鈴木の姿に明治の軍人をみる思いがする。
「太平洋戦争を考えるヒント」で保坂正康は以下のように述べている。
*私は日本の敗戦時には5歳余であったから、戦争の内実については直接には知らない。しかし史実を整理し、それに相応の責任体制を明確にしておかなければならない世代だと自覚している。そうした役割が、好むと好まざるとにかかわらず、私たちには、課せられている。そして私たちの次の世代からは、
「かつて日本の軍事主導体制は20世紀前半のある時期に大きな錯誤を犯した。その錯誤について次の世代が具体的に指摘して整理している。謝罪すべき点、さらには教訓としなければならない点も明かして相応の歴史的自省を示した。私たちはそれをもとにあなたの国と交流を深めていきたい。」
というメッセージを送りたいとする。また、
「保坂先生の歴史観は、結局すべて日本が悪いという見方じゃないですか。そういう見方を自虐史観と指していうのです」と学生らが云うことがある。
こういう人々に対して、
「私は自虐史観ではなく、自省史観の側に立っている。昭和という時代を自省や自戒で見つめ、そこから教訓を引き出し、次代につないでいくという立場だ」
と答えることにしている。*
「自虐史観」とは何ともいやな言葉であるが、その背景をウキペディアから拾うと、
自虐史観とは太平洋戦争後の日本の歴史学界において主流であった歴史観を批判・否定的に評価する側が用いる蔑称である。彼らの主張は、戦後の歴史観を自国の負の部分をことさら強調、正の部分を過小評価し、日本を貶める歴史観であるとみなしている。
ほぼ同種の造語として、日本悪玉史観、東京裁判史観がある。「自虐史観」への批判者たちが連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による戦後統治と極東軍事裁判(東京裁判)とを通じて「日本は悪である」との考え方を「押し付けられた」とみなしているためである。
日本は太平洋戦争で300万人を超える人々が悲惨に亡くなった。300万人という数は、日本人のほとんど全ての人がその肉親、知人、友人の誰かを亡くしていると考えられる数字である。戦争が終わって、「二度とこのような戦争は起こすまい。亡くなった人に代わってこれからは平和な世の中を築いていかねば」と全ての人が心から思ったに違いない。
「昭和史1926→1945」半藤一利 の中に次の一節がある。
*高木惣吉という、非常に良識的で、米内光政が最も信頼する部下でもある海軍大佐は次のように書いています。
「政府も陸海軍もそれぞれ違った意味で開いた口が塞がらない格好である。平沼内閣の立場は全くゼロということになった。しかし考えると、・・・英国も日英同盟を米国に売ったし、ドイツが防共協定をソ連に売ったからといって、さまで驚くにはあたらないだろう。ソ連でもまた独ソ不可侵条約をいつ英米に売らないとは保証できない。今日の国際信義は要するに国家的利害の従属にすぎないと見なければならぬ」
これが冷静な見方だと思います。条約なんていうのは、いつだって、まずくなれば売り渡してしまうものであって、これは現代もそう変わらないんですね。国際信義など下手すれば国家的利害のためだけにあるのかもしれません。
それにしても、政府や軍部の「見れども見えず」は情けないかぎりです。が、こうやって昭和史を見ていくと、万事に情けなくなるばかりなんですね。どうも昭和の日本人は、とくに、十年代の日本人は、世界そして日本の動きがシカと見えていなかったのじゃいか。そう思わざるをえない。つまり時代の渦中にいる人間というものは、まったく時代の実像を理解できないのではないか、という嘆きでもあるのです。
とくに一市民としては疾風怒濤の時代にあっては、現実に適応して一所懸命に生きていくだけで、国家が戦争へ戦争へと坂道を転げ落ちているなんて、ほとんどの人は思ってもいなかった。
これは何もあの時代にかぎらないかもしれません。今だってそうじゃないか。なるほど、新聞やテレビや雑誌など、豊富すぎる情報で、われわれは日本の現在をきちんと把握している、国家が今や猛烈な力とスピードによって変わろうとしていることを、リアルタイムで実感している、とそう思っている。でも、それはそう思い込んでいるだけで、実は何もわかっていない、何も見えていないのではないですか。時代の裏側には、何かもっと恐ろしげな大きなものが動いている、が、今は「見れども見えず」で、あと数十年もしたら、それがはっきりする。歴史とはそういう不気味さを秘めていると、私には考えられてならないのです。ですから、歴史を学んで歴史を見る眼を磨け、というわけなんですな。いや、これは駄弁に過ぎたようようであります。*
戦後70年という時間は長い時間でもあり、いま戦争体験を語れる人も少なくなってきた。私たちの世代は自分での戦争体験はないので、やはり歴史の事実からそれぞれが学ぶしかないのだろう。もちろん昭和という時代だけがこつ然と現れたわけではない。狭義には日露戦争後からのつながりにおいて、もうちょっと広くみれば幕末や明治維新後の日本の歩みとの関係において見ていくものなのだろうと感じた。
近頃は有珠山ロープウエーで上がり、展望台から眼下に見える昭和新山の説明をすることが多い。昭和新山は1945年(昭和20年)9月20日に溶岩ドームの成長が止まって出来た火山である。今年生誕70年を迎える。日本の戦後と全く同じ時間を歩んできた。戦後日本が占領されていた期間も高度成長期もバブルがはじけたときも同じ時間を歩んできた。初めは真っ茶色の火山灰で覆われ、溶岩の温度も高かったが、徐々に温度が下がり中腹から下には森が蘇ってきた。70年の時間は自然の植生の回復を促し、今では夏には中腹から下は緑の森が広がっている。それでも真ん中の溶岩ドームのいくつかの場所はまだ温度が高いので水分が反応して、水蒸気をあげている。この姿を見ると、皆さん生きている火山だと感じる。
(2015-8-31記)